arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1510日目と畑と小栗上野介と権田村➂

2025/10/28火曜日

5時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、星亮一著「上州権田村の驟雨〜小栗上野介の生涯」


房五郎と兼五郎がいくら待っても戻ってこない為三左衛門は22日夜半に中条村を出立、堀之内村へ。
堀之内村には池田伝三郎が付き添い母堂と又一の許嫁鉞子が既に到着。
堀之内村は中条の北東五里にたり魚野川を挟んで会津藩の預かり地、小出島と向かい合っている。
ここから八十里峠を越えれば会津領只見。
河井継之助が越えた有名な峠だ。
小栗夫人と母堂は入山村で別れて以来十日ぶりほどの再会。
言葉にならず手を取り合ってむせび泣くだけだった。

蜷川新は母(小栗夫人妹)を通じて当時の事を聞いている。

 

余は幼児、これを母より聞けるに、小栗上野介夫人は後年に至りても「当時の悲憤とその困阨せる事情とは聞いてくれるな」と言われたとの事であった。その危急困阨、察すべきである。余が聞ける所及び人の著書等によれば、当時夫人はその身の危険を慮り、その身を草刈り籠の中に潜め、その頭上に藁を覆い、村の一農民をしてこれを背負わせしめ、母子二途に分かれ、斯くして辛うじて官軍追手の難を免れ、山に伏し、谷に眠り、千辛万苦して辛うじて越後に逸れたとの事である。悲哀の極である。
三国峠を破った薩長軍は小出島を目指し進軍。
この前後に佐藤銀十郎、塚越富五郎、佐藤福松らが会津藩町野主水隊に加わり参戦している。

 

↑こんなさ、16世紀の戦国時代のような経験を19世紀になって再びさせられたわけよ。

させた方の学習能力の無さに驚くばかり。

 


推測では24日夕刻、夫人と母堂一行は新潟に向かっている。
新潟の藤井家に立ち寄り金子を調達し法音寺に詣で小栗忠高公の墓参をはたしたいとする母堂邦子のたっての願である。
法音寺は新潟市南堀にある曹洞宗名刹である。
母堂ミツはここで夫の墓参りをせずに会津若松に行く事はとても出来ぬ。
また、小栗夫人にも夫、上野介の供養をここでしなければという強い願があった。
一行が新潟に入った頃薩長軍先鋒は小出島を急襲。
小出島の会津藩郡奉行町野主水が農兵を動員し防戦に務めたが圧倒的優勢の敵先鋒に忽ち蹂躙された。
閏四月二十七日の戦いは凄惨を極め多くの町民が犠牲に。
小栗夫人は危うく難を逃れた。
佐藤銀十郎らが参戦した事で新潟の会津藩陣屋に小栗夫人一行の事は連絡が入っていたと見てよい。

一行はここから陰に陽に会津藩の庇護を受ける事になる。
この時期の新潟周辺は、会津藩が家老一瀬要人を総督に越後方面に出陣。
新潟の酒巻に陣屋、水原に軍議所を置き、柴太一郎、柳田新助が参謀として詰め、佐川官兵衛の朱雀四番士中隊を筆頭に、同二番寄合隊、同四番足軽隊、青竜三番士中隊、同二番足軽隊、第二砲兵隊、町野隊、新遊撃隊、結義隊、更に旧幕府の衝鋒隊、水戸脱逃隊など約千二百が布陣していた。
会津藩は新潟港から武器、弾薬を仕入れており越後は死守しなければならない生命線。
新潟は幕府直轄地だった事もあり、会津がここを抑え幕臣古屋佐久左衛門(医師高松凌雲先生の兄)の歩兵が三々五々隊を成し抜槍、抜剣、市中を横行。
この知らせにまだ奥羽列藩同盟に加盟していない長岡藩の河井継之助が新潟に行き一喝したそうだ。
継之助自身、3/3に江戸を引き払う際、品川沖の武器商人スネルの持ち船に機関砲など大量の兵器を積み新潟に着船。
弟のエドワード・スネルは武器商人で新潟港を舞台に列藩同盟に武器弾薬を売り込む事になる。
会津藩は仙台、米沢、庄内等へ働き掛け新潟を奥羽越の貿易港にした。
上野介は会津藩公用方と頻繁に面会。
その一人、秋月悌次郎は新潟に居た。
秋月は会津藩松平容保京都守護職の任にあった時薩摩との間で会津、薩摩同盟を結び長州を京都から一掃するクーデターを断行した人物。
秋月は幕府勘定奉行として敏腕を振るった上野介を高評価。

会津若松に迎え奥羽の為に力を発揮してほしいと懇請していた。
早川珪村によると、「この地は先代小栗又一忠高、新潟奉行として在任せる地なれば、その知人も多く、一行は安心して滞在数日、時機をみてまさに会津に赴かんとす。しかるに一面には又、小栗家の家族等なりと知り危害を加えんとする者ありとの風説を耳にし、急遽、数日の糧食を準備し、夜陰、濳かに出発し、本通りを避け、間通に入り渓流にそいて奔迯し、昼間は樹陰に、歩いは荊棘(いばら)裏に潜伏し夜間、険阻を冒して走ること三日、名状すべからざる辛苦を嘗め、漸く蒲原郡水原村の陣屋に達したり。(小栗夫人が草刈籠に入りて背負われたりというはこの時の事なり)一説には当時越後には諸藩の佐幕党多数脱走し来り、官軍に抵抗せんと隊伍を組んで集屯せり。故に小栗の家族一行に同情し、出来る限り便宜を与え、安全に水原の陣屋に至らしめたりと云えるが、何れが真なるか詳らかならず」
ちなみに新潟市の中心部と水原間は約20キロ。
歩けば半日の距離。
そこを三日も掛かったというのは信じ難い記述ではある。
ただ、早川珪村の記述は複数の人間から取材している点で信用度が高くこのような人物が高崎に居たことは上野介にとって極めて幸いであつた。
水原から会津若松までは阿賀野川沿いに一直線。
会津本庁にも小栗夫人一行の事は通報され希望通り会津藩若年寄横山主税宅を宿舎に当てることを決めていた。
横山は徳川昭武渡欧の際、上野介を尋ね挨拶し何かと指導を受けていた。
早川珪村によると、一行は会津藩から提供された駕籠三挺に乗り越後街道を下り閏四月末に会津に到着。
一旦城下の紙問屋湊屋善兵衛方に落着き、その後横山家へ移動。
その横山家の当主横山主税は白河の戦いで5/1に戦死。
小栗夫人は出産の準備もあり程なく南原の病院へ移動。
小栗夫人の出産は6/14。
夫人が分娩をした南原病院は会津若松市大戸町上三寄にありお城まで二里(8キロ)
小栗上野介の遺言に沿い母堂の邦子にちなみ国子と名付けられた。
夫人らに付き添っていた小栗歩兵は、銀十郎らは会津軍に加わり戦場へ。
比較的側に居たのは三左衛門と娘のさい、権田村から今市経由で会津若松に辿り着いた塚越房五郎、中沢兼五郎の四人のようである。
八月早々、富五郎戦死の知らせが夫人の元に。
実は三左衛門の娘さいは富五郎の妻で、三左衛門にとっては義理の息子。
小出島で参戦した佐藤銀十郎、塚越富五郎、佐藤福松の三人は会津藩の最精鋭部隊朱雀四番士中隊付属隊に属していた。
小出島で3人はどう戦っていたのか。
原虫野新田の庄屋桑原倉之丞の『郷兵出陣日鑑』によると、会津方油断のところに官軍が押し寄せ至る所に火を放たれ会津勢の戦死者は焼け爛れ『犬等喰い付き候由に御座候』となる。
湯之谷芋川村の庄屋星八右衛門の『戒禄善承記』にも同じような記述が。
会津藩小出島奉行の町野主水と応援の山内大学は四日町の林昌寺に入って夕飯のあと酒盛りを始め百姓人足に「汝等怠りなく張番致せ、もし敵攻め寄せなはわ、早々注進すべし」と申附け酒に酔い前後を知らず寝入ったところに敵が攻め入り戦わずして退いたというのである。
町野主水は会津では強者で通っており意外な一面を見る思いである。
この資料は明治以降に記された薩長寄りの記述と見られ、その点は割り引く必要もある。
戦いを続ける銀十郎は『小栗日記』に「感服の銃手にこれあり候」と記された射撃の名手。
江戸でフランス式歩兵操典を受けた小栗歩兵の精鋭である。
銀十郎は朱雀四番士隊付属誠志隊に所属し富五郎の死後、八月下旬、熊倉に転陣。
現在の喜多方市熊倉である。
薩長軍は一昼夜に二千発も会津鶴ケ城に砲撃。
悲惨凄愴の光景を呈したが必死に守る大勢の人々がいた。
江戸火消しもその一団である。

 

我が藩江戸邸に備うる所の防火夫は、江戸藩邸を徹するに当たり、従い来る者二十人あり。孤城圍を受くるに至り、皆城中に入りて力を尽くさんことを請いたらば、その志を嘉してこれを許し、西出丸西北隅の楼櫓をこれが屯営にあてたり。
彼等意気頗る勇壮、砲撃を聞けば屋上に登り、火の起こるを見れば水を注いでこれを消し、敵榴弾のまだ破裂せざるものあれば衣類を水に湿してこれを包み冷却して我が用に供せり。大書院、小書院の如きは榴弾の来ること最も劇しく、守城三旬の間に落下せる弾丸幾百千なるを知らざれど、火を起きざりしは、主として彼等が勇壮なる活動によらざるはなし。


主君容保の義姉照姫を中心とする婦女子の活躍も戊辰史に残るものだった。

奥女中は傷者ある毎に己の美服を供して惜しまず。或いは終夜、その傍らを去らず。投薬より百般の看護に至るまで皆、自ら奔走して労を厭わず。ことに旧幕府の歩兵或いは他郷より来れる傷者は最もこれを憐む。
ある人その故を問いたるに答えて曰く、負傷者の我が国人は親戚知己の来りて慰むる者あれど、遠く故郷を去りて、ここに来り奮戦して傷を負う者は、医師の他、来り慰むる者なき故なりと。

見事という外無かった。傷病者に給する食物は奥女中以下の婦人が当たり、照姫自ら之を監督。
本丸の西隣に炊事場を設け婦人が集合して水を汲む者、米を洗う者、飯を炊く者、各分業して作業。
炊事場には石竈十数個を設置し精米を炊き、之を奥女中室に送り若年寄格の女中かま藩士の婦人を指揮して握り飯を作り、之に、野菜や魚肉、鳥肉、牛肉等を添え、盆に載せ、表使女中が先頭に立ち侍女2人之に従い、幾つかの縦列を作り、整然と病室に運んだ。
一斉攻撃の前後には昼夜を分かたず飯を炊き、十数個の石竈は一刻も火が絶えることは無かった。
婦女子の働きは見事の一語につきた。

↑身重の道子夫人の苦労は計り知れない。

何とか会津若松に着くもお世話になる予定の横山主税常守がまだ20代の若さで白河城の戦いで戦死するという。

他に移動し、それでも無事に出産したのだから偉い。

今日はここまで。

 

6時半に畑へ。

来月の玉ねぎ栽培に備え、茄子を片付け木灰を施肥。

引っこ抜いたナスにちっこい実が着いていた。

最初で最後の実ですわ。

ゴーヤも一株だけ残して片付け、木灰を施肥。

8時に帰路に。

帰宅後洗濯。

ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら読書と調べ物。

12時半に昨夜以来の食事。

ついでにカボチャプリンを製作。

14時半に長男宅へお裾分けをお届け。

暫し孫達と遊んだ。

帰宅後、16時半から夕食作り。

鮭、茄子とゴーヤの味噌炒め、鶏ささみサラダ、なめこの味噌汁、ご飯、ウォッカ梅酒ロック。

19時に食べる事に。

 

歩数計は9256。

充実した一日だった。