arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1509日目と小栗上野介と権田村②と畑

2025/10/27月曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き星亮一著「上州権田村の驟雨〜小栗上野介の生涯」

 

三ノ倉に再び高崎藩など三藩の兵が集まり東善寺に向かう気配とあっては一先ず逃れるしかなかった。
上野介は三左衛門の案内で諏訪山麓を通り上ノ久保の紙屋に避難。
そこで昼食を取った上野介一行は更に山へ入って亀沢へ。

ここへ名主でアメリカにも行った佐藤籐七が駆け込んだ。
何故か高崎方面に探索に行った籐七は原保太郎に出くわした。
原保太郎は江戸で斎藤弥九郎練兵館で修業した剣客。

岩倉具視の隠れ家の用心棒でもある。
下諏訪では相楽総三の虐殺にも関与。
↑とんでもねえ刺客やないか!

 

保太郎は籐七を引っ捕らえ上野介の脱出を吐かせ東善寺に戻らなければ村を焼き払うと脅した。
籐七はその威圧に押され上野介を連れ戻す事を約束してしまった。
↑藤七はアメリカまで連れて行って貰ったけど、それを裏切るんだから相当脅されたんだべ。

 

上野介は家族を会津に避難させる事を決断。
名主中島三左衛門に託した。
その逃避行に於いて三左衛門が最も頼りにしたのは近習の池田伝三郎。
脱出ルートの須賀尾で育ったのでこの辺りの地理に明るい。
越後に脱出する前に主君上野介がどうなったかを確かめるために三左衛門が三ノ倉まで戻った。
そこで無残にも梟首された事を知った。
三左衛門がひた走りに走って大反に戻ったのは閏六日の昼すぎ。

即、越後に向かう事に。
倉渕で長く教員を務めた小坂橋良平氏の『小栗夫人の権田脱出路踏査記』が参考になる。
会津逃避行を辿った小坂橋さんは大正13年に権田に近い九十九村に生まれた。
父親の仕事の関係で東京て育ち、戦後帰京し倉渕村で教員になった。
この踏査を試みたのは昭和30年代半ば。本格的に歩いたのは昭和42から43年にかけてである。
「各地に小栗を知っている人が居て色々な話を聞くことが出来た。そんな事もあり夢中で山野を駆け巡った。当時は私が歩いた時代とは比較にならぬ山道ばかり。その苦難の旅路をおもい時折涙が出た」
↑一行は老母と妊娠6カ月の道子夫人と、他の本では養女の鉞子も妊娠中やで。

 

上野介の母堂は60歳を越えており夫人の道子は三十歳の半ば。
又一の許嫁で養女の鉞子は15,16歳。
一行が通った道は現在の地図には書かれていない。

人目を避けて大半獣道を辿っている。
荻生峠から須賀尾峠までは全員が一緒。
伝三郎の知り合いが山駕籠を用意し夫人を背負って峠を越えている。
上り下りが激しい為揺れが酷く途中からは落葉を入れる駕籠に納まって運ばれた。
小坂橋氏によると、大反峠で熊笹に身を潜めていた時、握り飯の炊き出しをくれたのは近くの一場善太郎で小栗夫人は感謝の印として紫色のギヤマンの菓子入れを贈っている。
荻生峠を下った一行は関屋の高橋円次郎家に宿泊。
円次郎の妻は池田伝三郎の義姉なので安心して寛ぐ事が出来た。
夫人は円次郎に上野介が遣米使節の土産に持ち帰った椰子の実で作った容器を手渡している。
道子夫人はいざという時三左衛門の娘さいが身代わりになる事になっていた。
薩長、特に長州は女と見れば老女でも強姦したからのう。
追々会津の本でご紹介致す。

 

ここから二手に分かれる。
夫人の一行は真っ直ぐ長野原へ。
母堂と鉞子は万騎峠越えで長野原を目指した。
長野原からはいよいよ草津街道。
岩村で広池の名主山本市兵衛宅に宿泊。
小坂橋さんは市兵衛の孫にあたる久一さんから話を聞いている。
2人の若い立派なお姫様が「市兵衛の家は何処か」と聞いてきたので「それはわしの家です」と言い案内したそうだ。

お姫様2人を馬の背に乗せ市兵衛が案内し広池から須川の左岸を北上して鍛冶屋敷を通り、暮坂峠を横切り、アト坂から世立へ出、白砂川を渡って和光原のヤマニの家へ送り届けてから帰って来た、そうだ。
夫人は湯の平温泉花敷温泉を通り野反湖の麓の和光原に辿り着いている。
ここで名主山田栄作家に宿泊。
ここで8日の夕暮れに到着した母堂鉞子一行と再会。
国語辞典「大言海」の著書として知られる仙台人大槻文彦明治12年にこの辺りを歩き記録に残している。
大槻文彦の父は仙台藩養賢堂頭取を務めた大槻盤渓で、盤渓は上野介と旧知の仲。
上野介が渡米する際、弟子の玉虫佐太夫を一行に加えている。
母堂と鉞子一行は迂回して信州館山から越後の魚沼郡堀之内を目指した。

老婆と息子や孫達の善光寺参りといった風情で。
一方夫人の一行は総勢20人に牛2頭、山駕籠2丁も用意した。
出発して間もなく丸塚山に掛かる辺りに清水が湧き出し夫人も山駕籠から降りて清水を呑んだ。
今でもこの清水を「小栗の一杯清水」と言い標識も立っている。
ここから野反湖までは深山幽谷
湖の標高は1514m。
右に見える八間山は1935m。
信越国境に聳える佐武流山は2192m。
左前方の岩菅山は2295m。
この国境越えは今も車道は無い。
途中からダム建設の為のトロッコ道があるだけである。
それを使っても秋山郷までたっぷり7,8時間。
小栗夫人の頃は獣道しか無い。野宿を重ねながら歩いた事になる。
一日目は五里(20km)歩いて大倉平のお助け小屋に一泊。
↑登山道を20km歩くとか!

 

翌日は三里(12km)弱歩いて和山温泉に2泊。
ここからは道があり一行は無事に秋山郷に辿り着く。
小栗夫人が「まだ着かないのか」と一日何度も言ったのは、辺りは想像を絶する深山で文字通り妖怪変化が出没しそうな薄気味悪さのせいだった。山中は大樹が生い繁り、鹿、熊、狼が生息。
至るところに大滝があり絵にも及ばぬ奇景であった。ここを夫人達は3日がかり越えたのである。
一行は深山幽谷を越えて秋成に到着。
現在の新潟県中魚沼郡津南町である。
ここの反里口に弥平治と付き合いのある根津仁右衛門が居た。
仁右衛門はこの辺りの顔役。
義侠心に富み何かと援助を惜しまなかった。
ここに『茶屋』と呼ばれた居酒屋もあった。

ここを営む藤五郎夫婦も弥平治の知り合い。

その弟に草津まで駄賃付け渡世をしていた伊助が居た。
藤五郎から言われ十日町まで牛車を引いた。
が、十日町には薩長の息が掛かった縮商人が多数入り込んでいる。
危ないので隣の中条村に宿泊。
中条村には仁右衛門の親類の岡田寛蔵が居た。
本家はここの庄屋を務め末裔は新潟県知事を務めた正平がいる。
次第に路銀が乏しくなり前途は道遠し。
新潟には上野介の父忠高が安政元年閏七月新潟奉行を命ぜられ赴任している。
忠高は在職僅か十ヶ月、47歳で病死し、新潟の法音寺に葬られていた。
嘗て忠高の下で検断の職にあった藤井家に50両の供養料を委託。
藤井家が何かと面倒を見てくれる筈だった。
その母堂達とは次の堀之内村で落ち合う事になっていた
三左衛門は房五郎と兼五郎を呼び権田に戻ってお金を集めてくるよう指示した。
2人は夜半に湯田中渋温泉に到着。
一日で20里(80km)を歩いた。
が、思わぬ障害が。
草津街道で松代藩士の検問を受け三日間も拘留。
その後権田村に戻り佐藤籐七に話してもお金は集まらず。
↑籐七は相変わらず恩知らず。

 

房五郎らは戻りは下野の今市から日光街道会津若松に向かっている。
房五郎と兼五郎が再び会津若松を目指したのには理由が。
2人は悼ましい知らせを耳にしたからだ。
上野介の養子又一と共に高崎で斬られた用人塚本真彦の母堂ミツと7歳の娘チカが自決。
夫人と他の三人の子供は行方しれずになっていたのである。
真彦斬首の悲報を聞くと母親と夫人は手を取り合い泣き崩れた。
母親のミツは『遠縁の者が七日市藩におる故私どもはそこへ』
追手は迫っているし誰も真彦の家族までは面倒を見る人はおらず。
家族だけでの逃避行に!
七日市藩は現在の群馬県富岡市に所在。
権田村から十里(40キロ)程だが権田を出るとすぐ険しい地蔵峠があり女子供の足ではどんなに急いでも2日乃至3日は掛かる。
母親のミツの提案で二手に分かれて行く事に。
ミツが長女チカ(8歳)の手を引き、別の間道を夫人が乳飲み子の長男を゙背負い、下の娘2人の手を引いて着のみ着のまま出立。
上野介主従はもとより関係者は全て引っ捕らえ厳罰に処するとの風説仕切りである。
真彦の家族はばらばらになって山に入った。
母のミツは烏川を渡って岩永村に出て山道に入り地蔵峠を越えようとしたが大平の東沢山付近で道に迷い動きが取れなくなった。
家族全員が一緒ならお互いに励まし合って何とか道を捜す事も出来たのだが、疲労と焦りに空腹も加わり身動きがつかなくなった。
↑権田村に引越してきたはかりで土地勘も無い。
地図もグーグルマップも無いし、案内人が居ないと山を越えるとか無理やろ。

そこへ一人の農夫が通りかかった。
ミツは必死に助けを求めた。
農夫は峠を下った中尾村の下田喜十郎。
「娘っ子が腹を減らしているようだ。弁当など用意してくるから待っていておくんなさい」とミツに言い中尾に引き返した。
そこから中尾までは一里半(6km)
酷い悪路で大人でも戻ってくるにゆうに3時間は掛かる。
喜十郎がその場に戻った時2人は冷たくなっていた。
懐剣で喉を突いていた。
なかなか戻ってこない喜十郎を三ノ倉の官軍屯所に密告したと疑ったのでは?
塚本家も武士。
辱めを受けるくらいなら、と命を絶った可能性がある。
西郷頼母一族もそうだが、長州軍は強姦すると知れ渡っていた。
だから、少しでも捕まる可能性があるのなら自害は止むを得ない。


驚いた喜十郎は村の名主下平家に通報。
七日市藩にも知らせの者が走った。
夫人と3人の子供はどうなったのか。
松井田町の武井家に「小栗夫人を泊めた」という話が伝わっていて、それが真彦夫人であると事が分かったのは暫く後のことである。
武井家に赤子を背負った妙齢の婦人が現れ「女の子2人が途中で動けなくなり涙を呑んで相間川の底に沈めた」と言って呆然と立ち尽くしたという。
武井家では母子を泊め、相間川に行くと2人の女の子が息絶えており、悼ましさに目を背けた。
翌日の夜、主人の荒次郎と近所の中山謙吉が付き添って七日市の前田家隠居屋敷に夫人を送り届けている。
その後夫人と幼い長男はどうなったのか分かっていない。
市川八十夫さんのご子息で林業を営む市川平治氏の案内で筆者は母ミツの自決の場所と夫人が娘2人を沈めた相間川を尋ねた。
自決の場所は地蔵峠から尾根伝いに西に延びる国有林の深い谷底で、主要地方道渋川ー松井田線の営林署林道の入り口に小栗上野介顕彰会が建てた殉難碑があった。

殉難碑
勘定奉行小栗忠順家臣塚本真彦の母ミツ
娘チカ(八歳)この地に近い谷合に殉難す
両女は慶応四年閏四月六日、権田村に於ける西軍暴挙の難を避け、七日市藩へ逃れる為地蔵峠を目指したるも山中に道を失い遂に力尽き、同八日この地に近き谷間に於いて自害せり、遠く悲しき歴史に想いを馳せ、この地に記念碑を建て永くその霊を悼む。
昭和五十七年四月

とあった。
哀悼。
2人の娘が殉難した相間川も深い山中にあった。
平成5年12月に川のほとりに、これも顕彰会の手で供養の「姉妹観音像」が建てられていた。像は柔和な見事な造りで「光線の具合だったのでしょうか、ここに建てられた時、像がにこやかに笑ったように見え、えっ!と思わず声を出しました。確かにそう見えたのです」

↑像の写真を見た。

http://www.webgunma.com/193/

「私達の為にありがとう」と伝わってきた。
小栗とその家族の逃避行の話は知られていても同じく斬首された家臣の塚本真彦の家族の悲劇については知られていないからの。
戦争が起こらなければ犠牲になる事は無かった命。

今日はここまで。

 

6時半に畑へ。

今日はヨトウムシ2匹を駆除。

7時に家路に。

帰宅後シャワーと洗濯。

9時半に買い物へ。

帰宅後、11時から読書と調べ物。

12時に昨夜以来の食事。

ついでにカボチャドロップクッキーを製作。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

夫が飲み会で不在なので残り物多数の手抜き。

19時15分にご飯が炊けたら食べる事に。

 

歩数計は10241。

充実した一日だった。