2025/10/26日曜日
4時に覚醒し読書と調べ物。
今日からは星亮一著「上州権田村の驟雨〜小栗上野介の生涯」

権田村は宝永二年(1705)から約160年に渡って小栗家の采地。
暴徒の総大将は長州浪人の金井壮助。
その下に本郷村出の博徒鬼金、鬼定、下駄金などが居た。
「村々人数一軒に付壱人づつ借用仕り候。鉄砲これあり候者は鉄砲持参なさるべく候」と回状を三ノ倉、水沼、岩永、川浦の村々に廻し、従わない者の家には火を付けて焼き払うと脅した。
関東諸藩はいち早く薩長に靡いた。
安中、前橋、吉井、小幡、七日市などの諸藩が相次いで薩長へ忠誠を誓いこれに合わせるかのように一揆が勃発。
薩長軍はこれらの藩に金井壮助らの浪人を忍び込ませ扇動。
沼田、伊勢崎藩も薩長の軍門に下り農民達は金や太鼓を打ち鳴らし各地で暴れ回った。
上野介が狙われたのは数十万両に及ぶ巨額な公金を持ち出したという噂であった。
農民達は目を吊り上げて権田村に向かおうとしていた。
見張りによると権田村を目指した暴徒の数は二千は下らないと報告された。
小栗隊による見事な作戦で暴徒達は鎮圧された。
しかし、この暴徒の襲撃こそ薩長軍が仕組んだ巧妙な罠である事に上野介は気付かなかった。
↑薩長軍てゆーか、岩倉具視と大音龍太郎による策謀やろ?
小栗上野介は水田を開くには水が必要なので用水路も作ることにした。
ここだけでなく近くの小高地区に用水路を開くことに。
小高の集落は田に水を引く用水が無く湧水によって稲を作っていた。
この為、田植えは夕立や大雨が降るのを待って行い、大雨が降ると近隣の親類縁者が大急ぎで駆けつけ代掻きをして田植えを行った。
小高の百姓が水が無く難渋している、と聞いた上野介がアメリカから持ち帰った測量器を使って水源の稲瀬川と小高の間を測量。
村人達を使って山を開き土盛りをして用水路の開削工事に着手。
懐中時計で時刻を確かめ測量器で実測する上野介の姿を村人達は惚れ惚れする面持ちで見惚れた。
三月十四日の上野介の日記には「戌 天気よし 於道事、今日吉辰に付、着帯致し候、最も真彦母まき着帯の義取扱候に付、同人へ祝儀百疋遣す」とある。
この日、妊娠中の妻の道子の初めて着帯の祝を村の酒屋、牧野長兵衛方で行った。
妻は播州林田藩一万石藩主建部内匠頭政醇の姫で2人が結婚したのは上野介が数え23歳、道子16歳の嘉永二年(1849)である。
建部家は戦国時代、近江箕作城主。
後に徳川家に仕え、一族には旗本六千石の大身蜷川家があり、住まいは上野介と同じ神田駿河台にあった。
道子は衣通姫と噂された美貌の乙女で、小柄ではあったが、大名の息女に相応しい気品と優雅を漂わせ、用人塚本の母と女中が三人、いつも付き添っていた。
塚本は元々建部家の小姓で、夫人付として上野介に仕えるようになった。
上野介と共に訪米。
英語も理解する英才。
上野介の側近中の側近である。
しかし、塚本親子の悩みは夫人が一向に懐妊しない事だった。
小栗家ではやむを得ず旗本日下数馬家から鉞子を養女に迎え権田へも連れて来た。
日下数馬は上野介の父忠高(中川飛騨守忠英四男)が小栗家に養子に入った後に生まれた為、次男として届けられ、日下家に養子に入った人物である。
小栗家にとって鉞子は単なる養女ではなく、小栗家本来の血筋を引く息女であった。
鉞子には聊か申し訳ない気もしたが上野介夫人の懐妊は殆ど絶望と思われていただけに塚本親子にとっては無常の喜びであった。
4/16付けの日記では「高崎、安中、吉井人数当方へ罷越談判の筋これある趣にて、追々出張致し候段、風聞これあり候に付、まず高崎へ沓掛藤五郎使者に遣し候処、神山辺迄、人数出張の趣に付、同所にて一通口上申入れ候処、何れも当方迄相越し、その上にて、談判も致し候趣故、磯十郎先へ帰村致し、その段申聞る」
危機感無し。
利左衛門の謎
上野介の側近で三井の番頭三野村利左衛門はどうしたのであろうか。
上野介は慶応四年の正月、二月の2カ月間に利左衛門に七回も会っている。が、上野介が権田に帰農してからはぱったり連絡が途絶えている。
上野介が暴徒と一戦を交え約二十人もの村人を討ち取った事が薩長軍東山道先鋒に上野介抹殺の口実を与える事になる。
東山道軍総督は岩倉具視の子岩倉具定。
参謀は土佐の板垣退助と薩摩の伊知地正治。
「回状
小栗上野介、近日その領地権田村に於て陣屋厳重に相構え候、これに加えて砲台を築き、容易ならざる企これある趣、諸方へ注進聞捨がたく、深く探索を加え候処、逆謀判然、上は天明に対し奉り不埒至極、下は主人慶喜恭順の意に相戻候に付、追捕の儀その藩々へ申附け候間、国家のため同心協力忠勤に抽すべく候、万一手に余り候は、早速本陣へ申出候、先鋒諸隊をもって一挙誅戮致すべく候事
右之趣仰出られ候間相達申入候、急々尽力これあるべく候也
四月二十二日
松平右京亮殿(高崎藩主)
坂倉主計殿(安中藩主)
松平鉄丸殿(吉井藩主)」
上野介は話せば分かるという態度で臨んだが、事態はそうしたものではなく、上野介誅殺を東山道総督府が決断するに至った。
己が正しければ理解してくれるとする上野介の理想主義が薩長軍に通用するはずは無かったのである。
4/29、三ノ倉に集結した高崎、安中、吉井の三藩の兵約八百は権田村進撃の手筈を整えた。
日記によると「高崎、安中、吉井藩の者と面会致」とある。上野介は「観音山には雨露を凌ぐ家作を作った。別に要害になるほどの普請ではこざらぬ」と事情を説明。
「十分に見分を遂げ、小栗に異心なき旨を各藩より総督府に申し立てて欲しい」と伝えた。
そして大砲一門と小銃20丁も使者に手渡した。
荒川祐蔵の案内で観音山を視察した宮部八三郎らは謀反の企てなしと判断。
尚、念の為、養子又一に高崎まで同道するよう求めた。
上野介がそれを認めると直ちに一同退散した。
閏四月二日付の日記には、四日に又一が高崎城下に行き、それから行田の東山道総督府に行く事を書き留めている。
高崎藩を信じ、高崎藩を信じ、高崎藩を信じ、高崎藩を信じ、又一に危害が及ぶなど微塵も思っていなかった。
小栗日記はこれで終わっている。
薩長軍東山道先鋒が上州に入ったのは三月上旬。
斥候隊薩摩藩川村与十郎(純義)が本隊入りの触書を持って中山道坂本宿の村々を廻った。
↑川村純義
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9
上野介が暴徒を撃退した事は東山道先鋒にとって渡りに舟。
これで小栗を誅殺する名分を得た。
↑二千人の暴徒に対し100人で防御したんよ。
正当防衛なのだが。
それで誅殺する名分て、頭大丈夫か?
かくして、上野介逮捕の命令が下る。
出動した三藩は上野介に謀反の意志無しとしたが総督府がこの報告を一蹴。
↑高崎・安中・吉井藩「なんなん!?」
東山道総督府(総督岩倉具定・具視の息子)が最も戦闘的な集団であった事も上野介にとって不幸だった。
東山道は敵、味方を問わず必要とあれば血の粛清をする冷酷さを貫いたからである。
①新撰組近藤勇の斬殺
➁味方の相楽総三の処刑。相楽総三は江戸の薩摩屋敷の浪士隊長として暴れまくり東山道先鋒を務めた。
赤報隊を率いた総三は宿泊地の本陣の前には必ず年貢半減の高札を立てた。
↑めっちゃ良い人やん!
尚、独断で立てたものかてはなく太政官からの許可を得て立てた。
確か西郷の許可。
薩摩の伊牟田尚平から至急京都に戻るよう連絡があり総三の留守中に、小諸藩兵が農民と共に相楽隊の宿営地信州追分宿の大黒屋を包囲。
銃火を浴びせ相楽隊幹部は尽く殺され知らせを聞いて戻った総三も3/2に捕らえられ斬首。
↑こんな取り調べもない残忍な処刑が僅か157年前に起きてた。
今日はここまで。
7時に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り、中華麹の材料をセット。
昼食と夕食の下ごしらえと米麹の出麹。

12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
16時から夕食作り。

チーズinハンバーグ、大根と里芋の煮物、カボチャサラダ。
これにご飯とウォッカ梅酒ロックをプラス。
歩数計は3140。
充実した一日だった。