2025/10/25土曜日
4時50分に起床。
5時20分に日光白根山登山へ向かう次男を駅まで送迎。
帰宅後、そのまま畑へ。
霧雨だったが、アオムシ等害虫チェック。
液肥を施肥したら帰路に。
帰宅後、ベランダガーデニングの水遣りと納豆作り。
朝の家事を済ませたら読書と調べ物。
江戸に戻った小栗は早速この仕法をテキストとして改革に加速度を付け始めた。
六月に入って兵庫に近い大坂の富裕な商人二十人に「商社設立に参加せよ」と命じ、兵庫商社の構想実現に拍車をかけた。
また、五月に江戸滝野川村に「大火薬製造所」を計画起工した。
責任者は武田斐三郎である。
小栗が抜擢した技術者であった。
武田斐三郎は箱館に五稜郭も築城済み。
既に実績かある。
六月には横浜陸軍伝習所を江戸の陸軍所(講武所)に移した。
更に九月には「仕法」にも書いてあった「幕府徳川家直参の兵賦金制度」を布告。
つまり、「直参の武士からの新陸海軍建設の為の分担金拠出」を命じた。
猛反対が起きた。
しかし、小栗は平然とした。
彼は慶喜から貰った「仕法」をテキストとする以上「俺の改革には典拠がある」「俺個人の考えによってこの改革を行っているのではない。将軍直々の命令なのだ」と思っていた。
こういう慶喜・小栗コンビによる積極的な幕政改革は次々と上方にいる反幕派に伝わった。
幕府組織も老中が国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の五総裁に任ぜられ、その下で若年寄或いは若年寄並が次官格で配置された。
勿論首相は老中首座。
長州藩の桂小五郎は「一橋(慶喜)の胆略、決して侮るべからず。実に家康の再生を見るが如し」と言った。
反幕派の下級公家岩倉具視も「慶喜は軽視すべからざる一の好敵」と言った。
小栗については反幕派の間で「小栗は貿易会社の設立だけでなく中央銀行の設立も策している」
↑それ、アカン奴や!
中央銀行はロスチャイルドがやりたい奴だから!
そら、暗殺指示出るわな。
小栗はロッシュを始めフランス側から知識を得ていたか「幕府の財政の近代化にはどうしても株式と銀行の制度を導入しなければならない」と考えていた。
この慶喜・小栗コンビによる幕政改革の路線に大きな障害が現れた。
フランス政府の対日政策の大転換だ。
フランスでは自由民権運動が高まり、更に、隣国のプロシアとの軋轢が強まり、膝元に火が着いた。
ナポレオン3世は公使ロッシュに日本に肩入れするな、と命令してきた。
暗礁に乗り上げたのが「600万ドルの借款問題」
ロッシュは本国からの訓令を隠しながら曖昧な対応をしていたので小栗は栗本を自宅に呼んだ。
その頃小栗は庭の片隅にニワトリを飼っていた。
そして産みたての卵で小栗自ら卵焼きを焼いて持て成した。
ご馳走しながら栗本にフランス行きを依頼。
フランス本国で対日方針を確認し、出来れば借款の話を纏めて欲しい、と。
栗本は程なく渡仏。
帰国は慶応四年五月。
その一ヶ月前に小栗は東山道軍によって斬首されていた。
二度と小栗に会えなかった。
幕府を倒す上で大功労者だった薩摩藩の西郷吉之助がこんな事を言っている。
「俺は古い家を叩き壊すのは得意だが新しい家を作るのは苦手だ。新しい家を作るのは大久保(一蔵)の方が上手い」
古い家を徳川幕府、新しい家を明治新政府と考えれば「倒幕の強力な推進者は西郷吉之助であり、明治新政府の建設者は大久保一蔵であった」と言えるかも知れない。
ここから、徳川幕府は急速度で破壊された。
最後の将軍徳川慶喜は小栗上野介やブレーンの西周が献策した「廃藩して郡県制に切り換える」という制度改革を中心に「幕府を中央集権政府とし、その主宰者である大君の権限を拡大しよう」という考えを持っていた。
各大名の「地方自治権」を奪うという事である。
これに対し京都では和宮降嫁の推進役であり世論によってその罪を問われた下級公家岩倉具視の隠れ家に討幕派の志士が集まっていた。
↑大音龍太郎もな。
彼らは既に錦の御旗や天皇軍の軍歌まで作製し待ち構えていた。
↑錦の御旗て、天皇から下賜されるのでは?
勝手に作ったらアカンやろ。
徳川慶喜は慶応三年十月十四日に「大政奉還」
↑討幕の密勅は慶応三年十月十三日付けで下されている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
公家達は勝手に勅(天皇の命令)を出す。
孝明天皇もそれを嘆き、禁門の変後、これから出す勅は朕が出す本当の勅である、と宣言していた。
討幕の密勅もそう。
14歳の明治天皇の名で出した。
その発動を回避する為の「大政奉還」だった。
本物の明治天皇は父孝明天皇のように「これから出す勅は朕が出す本当の勅である」と宣言する機会を与えられないまま抹殺された。
↑どこが尊王だよ?
何が勤王だよ?
天皇をただの傀儡としか思ってない奴らが討幕したんよ。
大政奉還から僅か2ヶ月足らずの12/9、突然岩倉具視の率いる討幕派が京都御所で小御所会議を開いた。
この会議で岩倉は強引に「王政復古の大号令」を発布。
「今後日本の政治は天皇が自ら行う」という宣言である。
↑日本の歴史的大事件。
軍事クーデターが発生。
日本の植民地史の始まり始まり〜。
この後は薩摩藩の西郷吉之助の謀略により御用党事件が起こり、結局これが鳥羽伏見の戦いの導火線になり幕府軍は敗退。
慶喜は敗北を知ると海路江戸に戻った。
↑淀藩も藤堂藩も裏切ったしな。
「総司令官の敵前逃亡」である。
↑フランス革命でギロチン処刑されたルイ十六世とマリーアントワネットの逃亡劇を彷彿させる。
ヴァレンヌ逃亡事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
慶喜はひたすら恭順の姿勢を示した。
代わりに小栗がギロチン処刑された、と。
江戸城で慶喜を迎えた小栗は「何故、大坂城で一戦なさらなかったのですか?」と迫った。
「江戸城に居るお前には上方の政治状況はわからぬ」
と言い捨て奥へ去ってしまった。
今後どうするかという対策会議が毎日のように開かれた。
主戦論を唱えたのは京都守護職だった会津藩主松平容保とその弟で京都所司代を務めた桑名藩主松平定敬、勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介、海軍の代表である榎本釜次郎、新選組代表の近藤勇や土方歳三。
この時、小栗が主張したのは「敵を箱根以東に誘い込んで幕府海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断つ。箱根を越えた敵は、幕府陸軍のフランス式歩兵・騎兵・砲兵部隊で一挙に粉砕する。更に海軍の一部を神戸方面に派遣して、薩摩軍や長州軍の退路を遮断する」というものであった。
慶喜は「徹底恭順を守る」とこの案を蹴った。
新政府軍に参謀として籍を置いた大村益次郎は「もしも小栗の案が実行されていたら我々の首もとっくに無くなっている」と驚嘆したという。
慶喜は主戦論を唱える者には全て「今後江戸城に来てはならぬ」と退去を命じた。
そして、徳川家の家職として陸軍総裁に勝海舟を、会計総裁に大久保一翁を、外国事務総裁に山口直毅を、海軍副総裁に榎本武揚を任命。
主戦論者の榎本が海軍副総裁になっているのは面白い。
やはり、榎本は幕府艦隊の殆どを率いて脱走。
箱館の五稜郭に籠もりもう一戦行った。
慶喜は2/12に上野寛永寺に移り謹慎生活。
「新政府」による朝敵(笑)処分を発表。
第一等 前将軍徳川慶喜
第二等 会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬
第三等 伊予松山藩主松平定昭・姫路藩主酒井忠惇・備中松山藩主坂倉勝静
第四等 宮津藩主本庄宗秀
第五等 美濃大垣藩主戸田氏共・高松藩主松平頼聡
小栗は「勘定奉行兼陸軍奉行並」という役職の為直接朝敵の指定をする事は控えた。
小栗は2/28に隠居願を聞き届けられ領地である上州権田村に家族と共に向かった。
4/22に東山道鎮撫総督岩倉具定(具視の息子)から「小栗上野介を追討せよ」という命令が下っていた。
それより前に新政府は
・朝敵徳川慶喜を討伐する為に江戸城総攻撃を行う。
・攻撃期日は三月十五日とする。
という方針を立てた。
東海道鎮撫総督 橋本実梁
東山道鎮撫総督 岩倉具定
北陸道鎮撫総督 高倉永祜
東征大総督 有栖川宮熾仁親王
参謀 薩摩藩・西郷吉之助、伊予宇和島藩・林通顯
勝・西郷会談は三月十三・十四の両日、場所はあ・の・江戸三田薩摩藩邸。
西郷は勝の要求を殆ど受け入れた。
この話を権田村で聞いた小栗は「勝は元々元治元年(1864)九月十一日(笑)に西郷に幕府の最大秘密を売り、しかも幕府を倒す事を勧めている。西郷にすれば勝は恩人だ。従って勝の出した条件をのむのも無理はない」と思えた。
元治元年9月11日(笑)、勝は西郷に幕府の重大な秘密を漏らし、幕府を裏切った。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
14時から夕食の用意。
嫁と孫達が帰ってきたので、上の孫の誕生日パーティーをやる事に。
16時に到来。

ししゃも、チューリップの醤油煮、サラダ、チーズ竹輪、ナッツ、なめこの味噌汁。
これにウォッカ梅酒ロックと夫が焼いたお誕生日ケーキが登場。
久々の再会に大いに盛り上がり、孫達の成長に驚いた。
そして、皆で良く呑み良く食べた。
お皿は長男と長女が洗ってくれた。
長男一家は21時過ぎに帰って行った。
このあと、読書と調べ物をする事に。
歩数計は9827。
充実した一日だった。