arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1505日目と小栗上野介童門版⑰と畑

2025/10/23木曜日

5時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き、童門冬二著「小説小栗上野介

 


慶喜「小栗、ご苦労であった。早速にも江戸に戻り今の路線をそのまま強化拡充して貰いたい。頼みにしているぞ」
小栗「極力、ご期待に沿えるよう努力致します。」
小栗は坂倉の方を向いて尋ねた。
「江戸に勝殿が戻って軍艦奉行職はそのままに差し置かれると聞きました。私の海軍奉行並と勝殿の軍艦奉行との関係はどうなりましょう?」
坂倉「言うまでも無い。海軍奉行並の方が上だ。軍艦奉行は部下になる」
小栗「わかりました。ありがたき幸せ」
小栗が意気揚々と江戸に戻った直後、「大名会議」を開催。
慶喜は急な招集なので有力大名二十四藩に呼びかけた。
出席したのは七藩。
会議は11/7と8日の2日間行われ19日に7人がやって来て坂倉勝静に告げた。
徳川慶喜殿を次期将軍に推戴致したいということで意見が一致いたしまし」と。
坂倉はこの事をすぐ朝廷に報告。
11/27に孝明天皇は朝廷の議奏と伝奏両役を呼んだ。

孝明天皇はこの時まだ生存。

 

徳川慶喜に将軍職を宣下したい。是が非でも受けさせよ」と命じた。
武家伝奏は12/28に京都所司代桑名藩松平定敬に伝えた。
松平定敬はすぐ大坂城慶喜にこの旨を報告。
慶喜「勅命を畏み征夷大将軍をお受けすると奉答せよ」
「かしこまりました」
大役を果たし京都所司代松平定敬は再び京へ戻った。
この頃の小栗には勘定奉行としての別な仕事が。
それはフランス公使ロッシュから「来年(慶応3年)にパリで万国博覧会を開くので日本からも将軍か将軍の代理を送って参加して欲しい」と言われていた。
慶喜から参加の了承も得た。
そもそも世界の有力国が何故「万国博覧会の開催」を思い立ったのか。
世界で最初の産業革命に成功したのはイギリス。
産業革命で大量生産が可能に。
それを売り捌くのに国内市場だけでは足りない。
外国へ市場を゙求めようと言うことになり、そのPRの場として開催されるのが万国博覧会だ。
万国博覧会の第一回目は1851年にイギリスのロンドンで開かれた。
イギリスの次に産業革命を成功させたのがフランス。
フランスは1848年の二月革命によってヨーロッパで初めての「普通選挙」や「議会一院制」を実施。
しかし、資本家階級が労働省階級の進出を恐れ「強力な政権を樹立させたい」と1852年にナポレオン3世を即位させた。
この為フランスは軍隊・警察・官僚・教会などの力が昔に戻り謂わば「非民主的な国家」に逆行。
が、やはり資本主義の進展と共に1864年には「労働者の団結権」を認めざるを得なかった。
1867年には議会権限の拡大を認め、1868年には出版・集会・結社取締の緩和を行わざるを得なかった。

当時ロンドンに留学中の薩摩藩の新部刑部と五代才助はパリに行き、薩摩藩として独立して出品する事を画策。
背後には当然イギリス。
この万国博に於いて薩摩藩徳川幕府と別に出品すれば、イギリスの主張通り「ほらみろ、薩摩藩徳川幕府とは別に主体性を主張しているではないか」と言うことになる。
この企みは従って薩摩藩とイギリスの共謀。
この時活躍した五代才助は後に野に下り大坂財界の重鎮に。
大阪商工会議所を作ったのも彼。
「東の渋沢、西の五代」とまで言われた。
薩摩藩琉球王国の名を以て出品。
琉球国は慶長14(1609)年に薩摩藩に侵略された。
以来、琉球国は従来の「中国への朝貢貿易」を続けると同時に実質的には薩摩藩の支配を受けた。
これを「両属制度」と言う。
しかし、琉球国ではそういう見方をしない。
「中国に朝貢貿易を行うのは琉球国の意思だ。しかし、薩摩藩の支配は薩摩藩が勝手に支配したのであって琉球国の意思ではない」と主張する。
しかし、薩摩藩琉球国を軍事支配し「中国との朝貢貿易はそのまま継続し、薩摩藩が侵略している事実を決して漏らしてはならない」と釘を刺した。

イギリスは公使パークスと外交官のアーネスト・サトウが積極的に薩摩藩長州藩を応援し「西南諸藩の連合によって天皇を戴く新政府を作らせる」という事を推し進めていた。
↑あら、策謀が全部バレてますわー。

本国から、イギリスが後ろで糸を引いているとバレないようにやるよう指示があったのに。

 

特にアーネスト・サトウは西南諸藩の城を次々とまわり藩主と会って自分達の構想を告げていた。
その説得によって西南諸藩の藩主達も次第にその構想を現実性のあるものとして受け止めるようになった。
徳川幕府を解体し将軍も一大名として扱う。改めて雄藩連合による天皇政府を作る」という気になり始めた。
具体的には薩摩藩・伊予宇和島藩土佐藩・越前福井藩などのトップが京都に会同してこの構想の実現化に努めようという案が密かに進められていた。
徳川慶喜は小栗の意見によって仏・英・米・蘭の四国の代表に「4月上旬頃に、大坂城でお目にかかりたい」と通告。
これに対しイギリス公使パークスは「征夷大将軍は日本の主権者ではない」と異を唱えた。
パークス「その証拠に近頃の幕府は外国と条約を結んだり交渉を成立させたりする時は必ず天皇の許可を貰っている。と言う事は、征夷大将軍天皇から任命された一家臣に過ぎない。母国を代表する我々公使は天皇からの通告なら謁見もやぶさかではないが、天皇の家臣である将軍と会う必要は無い。会っても何の益もない」と主張した。
これには、アメリカ・オランダ代表も理のあるところと感じ一様に顔を見合わせた。
巻き返したのはフランスの公使のロッシュ。
「イギリス公使のおっしゃることも良くわかる。しかし、幕府の征夷大将軍はその始祖徳川家康の時代に天皇から政権の委任を受けている。

↑ほんこれ。

天皇(朝廷)はこの時、行政・軍事は出来ない。

 

慶喜殿はその流れにある存在だ。だからやはり慶喜公には会うべきではないのか」と説得。

他の二国代表もロッシュに賛成。
パークスも承認せざるを得なかった。
四国の代表との会談で代表達は「兵庫開港を一日も早く行われたい」と申し入れた。
慶喜「私の責任を持って速やかに開港する事を誓う」
イギリス公使パークス「風聞によれば朝廷は兵庫開港は許可しないというお沙汰書を幕府に下したと聞いたが」
↑某岩倉具視から。

 

確かに謁見直前の三月十九日に京都朝廷は「兵庫開港は承認出来ない」というお沙汰書を下していた。
孝明天皇もさ、大坂港に来て外国の軍艦と大砲見てみれば良かったんよ。
行幸するのは神社じゃ無くて軍艦であるべきだった。

 

慶喜「私は征夷大将軍としてわが国の大法を遵奉し祖宗以来の全権を掌握しております。従って朝廷のご意向があろうとも私の責任に於いて兵庫は開港します」と言い切った。
が、パークスは報復してきた。
それは他の三国代表が慶喜に対し「マジェスティ(陛下)」という尊称を使ったのにパークスだけは「ハイネス(殿下)」としか言わなかった。
↑あのさ、パークスはもっと日本の歴史勉強した方がええ。
天皇はさ、平安時代から藤原マロ軍団の傀儡なの。
で、マロ軍団が酒池肉林でどうしようも無いから源氏が軍事政権作ったの。
で、後鳥羽上皇順徳天皇父子という骨のある天皇達が政権奪還を試みたけれど、天皇はマロ達に囲まれているだけで軍隊持たないから粛清されたの。
それは助かったんよ。
軍事政権があったおかげで元寇に対処出来た。
九州の御家人達を主体に守りきった。
元寇の時、北条時宗は一応、朝廷にお伺い立てたよ?

どしますかー?て。

マロ達は都であーでもないこーでもない話し合ってるうちにモンゴル軍到来。

対馬壱岐も日本人全滅やで。

九州の武士達が戦って決着着いたんよ。

 

実を言えば「3/19に朝廷は兵庫開港を承認出来ない事をお沙汰書によって幕府に伝えております」と告げたのは薩摩藩の大久保一蔵である。
↑だけど、大久保はこの時まだ無位無官だから御所に参内する資格が無いのでは?

大久保利通従四位授与(辞退) 1688年6月11日
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A

やはり、下級だけれど公家の岩倉具視が情報源か。


大久保一蔵はこの頃めきめきと外交関係に力を発揮。
パークスやアーネスト・サトーと密接に連携を保っていた。

今日はここまで。

 

6時過ぎに畑へ。

今日も作物ちゃん達はヨレヨレ。

更にムシムシ。

生き残った野菜達は健気に成長。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣り。

10時から読書と調べ物。

12時過ぎに昨夜以来の食事。

午後も読書。

17時から夕食作りしようと思ったら夫がケーキ作りを開始。

夫の脳味噌ハッキングしてそういう作戦に来た。

ブログ編集を阻止する為に。

あの手この手で頑張ってますわ。

17時45分から夕食作り。

サワークリームドレッシングサラダ、鱈の中華スープ、チーズ竹輪。

ハイナンチキンがまだ炊けない。

19時半にご飯を食べる事に。

 

歩数計は9067。

充実した一日だった。