arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1503日目と畑と小栗上野介童門版⑮

2025/10/21火曜日

6時に起床し、米麹チェック。

品温は31度。

ちと低いので湯たんぽで包んでいる毛布を温めた。

6時45分に畑へ。

大量のイモムシがお出迎え。

ヨトウムシも数匹。

ヨトウムシて、夜の間活動して昼の間は土の中に潜む生態だと認識していたが。

20匹以上駆除。

7時半に畑を後に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣り。

朝の家事を済ませたら読書と調べ物。

昨日に引き続き童門冬二著「小説小栗上野介

 

今日アップする分を誤って昨日アップした。

ご了承を。

 

文治二年(1865)一月、幕府は「横須賀製鉄所取立」に小栗上野・栗本瀬兵衛・木下謹吾・浅野伊賀守・山口駿河守・石野筑後守・柴田日向守を任命。取立と言うのは「扱」という意味。
小栗の主張で前年の九月一日に参勤交代は元に復されていた。
大名達が1年交代で江戸城に勤務する事により、江戸の屋敷が復活され出入りする商工業者の仕事が出来て江戸の町も少しずつ活気を取り戻した。

第一次長州征伐の、幕府による長州への処罰に小栗は不満だった。
案の定、一月に高杉晋作が蜂起。
藩庁を占拠。
高杉達は生温い保守派政権を打ち砕き自分達の過激な政府を樹立。
この報告を聞いた小栗は(長州藩はもう一度幕府に牙を剥く)と感じた。

その通りに。
過激派が占拠した萩政府は「尊王敬幕」から「尊王倒幕」に転換させた。

↑このタイミングで長州は倒幕派に。

 


正月早々ヴェルニーが横浜港に到着。
ヴェルニーについては福地源一郎がその『回顧録』の中で次のように書いている。
「このような大任に当たる程の人物であるから年齢は四十歳を越え、容貌も魁偉で威儀があり自重の人物であろうとすべての人が想像していた。

ところが初めて会うと、まだ年齢は二十八、九歳ぐらいで体は細長く短視疎髯(髯がまばら)の若い士官だったので、意外に思った。質朴な田舎士官で一見すると大学を卒業したばかりの学生に見えた。我々はフランス公使の口車に乗せられたのではないか、とさえ思った。ところがその行状・才幹共に非凡であって、感服するより他は無かった。人選にも私情を挟まず、事を処理するに果断であり、同時に緻密であり、我々日本側は一同賛嘆し、さても欧州の人はかくも敏捷であるのかと驚きいった次第だ」と褒め称えている。
福地源一郎は長崎の医師福地家に生まれた。
土地柄オランダ語を学びオランダ商館の通訳に。
安政5年(1858年)江戸に出て幕府のお雇い通弁に。
身分は御家人
文久元年(1861)と慶応元年(1865)に2度訪欧。
帰国直後に直面した大政奉還に強く反対。
主戦論を唱えた。
倒幕後、「江湖新聞」を発行。
純然たる佐幕派新聞。
戊辰戦争薩長の奸策だ」と主張し逮捕され、新聞は発行禁止に。
↑長崎にもこういう漢が居たのな。
驚いた。

 

許された後に大蔵省の役人になったがすぐ辞職。
東京日日新聞」の主筆となった。
当時としては全くの「政府御用新聞
突然佐幕派から政府派に寝返った。
福地が何故ヴェルニーを知っているかと言うと日本側の老中水野忠精とフランス公使ロッシュとの合意で「造船所設立趣意書」に基づき渡仏したからである。

八節からなる趣意書の中で造船所の建設開始は元治二年十一月二十六日(フランス側の暦では1866年1月1日)
完成は元治六年十一月十九日(フランス暦では1870年1月1日)
↑この時、小栗は生きていない(泣)

 

ロッシュは趣意書の合意が文書化されたので「これを更に約定書にしたい。2月2日にフランス海軍の司令長官ジューライスが本国に帰るので持たせたい」と告げた。
水野は小栗にそれを指示。
小栗は一晩で草案を作り水野へ提出。
水野はすぐロッシュへ渡した。
内容は「この度、フランス公使の斡旋で上等機会官ヴェルニー氏の推薦を受け相州横須賀湾に製鉄所を建設する運びとなった。今後のため約する条目は次の通りである。


・製鉄所一、修船場大小二、造船場三、武器蔵他の付帯設備を゙四カ年で落成のこと。
・帰国ツーロン港の設備に倣って建設すること。
・建設費の総計は一ヶ年で六十万ドル、都合四カ年で二百四十万ドルにて落成すること。尚、四カ年の間、日本側は支払いを滞らざるよう致すこととする。
・建設担当者はフランスはヴェルニー氏の専任とし、日本は勘定奉行松平対馬守、軍艦奉行並木下謹吾、目付山口駿河守、同栗本瀬兵衛、浅野伊賀守に専任を命ずる。
必ず成功を要するにものゆえ両者力を合わせ、互いに隔意無く懇誼を゙尽くすものとし、ここに取り決めるものである。
元治二年正月二十九日
水野和泉守 花押
酒井飛騨守 花押」
(この辺の記述は大島昌宏氏の著作を参考にさせて頂いている)


フランス側の代表達は顔を見合わせた。
この文書の中に小栗上野介の名前が無い。
ロッシュが尋ねた。
小栗「私の名が無いのは間もなく私は役を罷免されるからでございます」
つまり、フランスと組んで横須賀に造船所を造ることを快く思わない海軍関係の幕臣達が沢山いる事を告げた。
幕府の海軍関係者達は嘗て長崎の海軍伝習所で学んだ者が多い。
更にイギリスも憤慨(笑)
「今、世界で海軍と言えばエゲレスが一番だ」
と公言し反対している。
小栗「エゲレス側の反対はもう一つ意味があります。エゲレス公使は幕府の外交権について疑いを持っております。条約を結ぶ時に天皇の許可を求めるというのは外交権は天皇にあるのではないかということです。そうなると征夷大将軍である徳川家も天皇の家臣の一人に過ぎず、大名は全て同格だということです。であれば徳川家が代表する幕府でなく、全国の大名も直接外国と貿易を行っても良いということになります。エゲレスはその主張を次第に強めています。ですから我々が貴国のお力を借りて横須賀に造船所を造ると言う事は幕府の海軍力が強まり、その勢威が高まって大名を゙統制するきっかけづくりをこの小栗が企んでいると考えているのです。反対は当然でしょう」

今日はここまで。

 

昼食を鰻屋さんに食べに来た。

出来上がるまで1時間掛かるというので、ブログ編集する事に。

 

歩数計は5591。

充実した一日だった。