arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1502日目と小栗上野介童門版⑭と畑

2025/10/20月曜日

4時に覚醒し読書と調べ物。

昨日に引き続き童門冬二著「小説小栗上野介

 

小栗は生贄としてクビになるということ。

技術者ヴェルニーの到着と同時に日本とフランス側の関係者が神奈川奉行所で会談。
既に下見を済ませたヴェルニーは「横須賀港にツーロンの2/3程度の規模で造船所を作りたい」と既に引いた図面に基づいてキビキビと示した。
これが、後に福地源一郎が感嘆する場面だ。
老中の水野は「どうだ?」と小栗を振り向いた。
小栗「何も申し上げる事はございません」と感動した目でヴェルニーを凝視。
若いヴェルニーは既に「徳川幕府にはオグリと言う頭の鋭い建設関係者が居る」と聞いていた。
水野「計画は大変結構です。そこで、どのくらいの総工費で建設をして頂けるのか、額を伺いたい」
ヴェルニー「二百四十万ドルです」
水野は驚いた。
小栗の推定では五百万両。安く見積もっても三百から四百万両。
ヴェルニーの言う二百四十万ドルと言うのは日本の百八十万両。
水野は嬉しそうに小栗を振り返った。
この計画を初めて江戸城で発表した時、幕府首脳部は驚いた。
軍艦奉行だった勝海舟が真っ向から反対。
「とんでもないことです。第一それ程の巨額の費用を投じても造船所が出来るのは十年先のことになりましょう。今のような政情で十年先の事など予想もつきません。計画には反対します」
↑意訳すると「とんでもないことです。第一それ程巨額の費用を゙投じても十年後に幕府など存在しません。私はこの先幕府が倒される事を知っています。それなのに投資するなんて。計画には反対します」

しかし、首脳部の決断によって造船所計画はそのまま生き抜いた。
元治二年の9/27に横須賀製鉄所の鍬入れ式が行われた。
鍬入れ式は日本のセレモニー。
ロッシュはわからずまごまご。
小栗が手本を示した。
慶応元年の5/4、小栗は再び勘定奉行に就任。
こちらの予想した金額の半分でフランスが請け負ってくれるが、その費用の捻出は小栗に頼らざるを得ない、という理由だ。
小栗「何年か後に製鉄所が出来れば新しい家主に熨斗をつけて提供する事になるかもしれない。しかし、新しい持ち主は土蔵付き売家を買ったと言って、売り渡した旧持ち主に感謝するだろう」
栗本瀬兵衛によると「小栗が発したこの時の言葉は一時の冗談ではない。当時我々が仕えていた幕府は確かに小栗の見通し通りかなり危険な状態になっていた。いつ倒れるかわからないというひそひそ話も江戸城内では行われていた。しかし、小栗にしてみれば例えそうてあったとしても幕府が存在する限りは忠節を尽くさなければいけないというのがその信念だった。彼は自分の仕える幕府がいつ倒れるかわからないという不安感に慄いて力を抜くような事は絶対にしなかったのである」
小栗は既にその明敏な頭脳で(幕府はいずれ倒れる)と考えるようになっていた。
しかし三河武士の意地で「例え倒れても、倒れる日までは自分の生命を幕府の為に完全燃焼させよう」と考えていた。
↑じゃないとご先祖様に顔向け出来ない、て考えるわな。

 

慶応四年(1868年)1月15日に江戸城での評議の場から去ろうとした慶喜の袖を掴んで逆鱗に触れ御役御免になるまで勘定奉行は続く。
小栗にすればイギリスから密かに武器弾薬や艦船などを輸入している薩摩藩や、薩摩藩の名を借りてそれを購入している長州藩の行動は「外国の力を借りて徳川幕府を倒そうしている」と映った。
しかも、その根底に「日本国防衛」の気持ちは無い。
「日本の国は日本人の手で守る」
「国防までも外国の手に委ねるようになったら日本の独立性は失われてしまう」と考えた。

↑小栗が斬刑になった1年後に日本はイギリスの植民地に。

その証拠に明治に入って英王子が正倉院の中に入っている。

正倉院天皇の所有。

聖武天皇の遺品の宝物を納めたのが起源。

天皇以外では織田信長徳川家康など時の権力者が入る事が出来た。

信長や家康にしても天皇の許可を得て入った。


そうなるとまず手を付けなければならないのが「国内の一致協力」
しかし、今は乱れに乱れ戦国時代と同じ。
下剋上が罷り通っている。
薩摩藩長州藩が次第に力を伸ばし中央政府である幕府の言う事を聞かなくなっている。
「力のある者が勢を伸ばす」
ということが下剋上の世の中。
理念も何も無い。
↑奴らの大好きな弱肉強食。
たから、奴らが通り過ぎた後は略奪強姦が罷り通った。

 

小栗上野介は「北条時宗の苦悩が理解できる」と思うようになっていた。
時宗が執権を務めた時は「鎌倉政権内部の乱れ」
↑北条一族内での争いが頻発した。

 

それと「蒙古の日本侵略」があった。
↑蒙古に日本をたやすく侵略させる為に、北条一族を撹乱工作。
わいの推測では工作員は当時中国から大挙して来日した僧達。
しかし、北条時宗の果断により内乱は回避。
そして、二度の元寇も防御に成功。
北条時宗はその数年後に若干32歳で死去。
当に、元寇と戦うために生まれてきた日本の守護者よ。
物心ついた時から父で執権の北条時頼から元寇に備え様々な薫陶を受けていた。
元寇の申し子よ。

で、その後、室町幕府時代から外人が直接乗り込んで工作活動。
室町幕府を倒し下剋上へ。
織田信長豊臣秀吉を担いで日本を侵略しようとするも、前者は途中から言う事を聞かなくなり本能寺の変で抹殺。
次の秀吉には日本女性の奴隷貿易がバレてバテレン追放令。
秀吉病殺後、家康を担ぎ江戸開府。
徳川忠輝と舅の伊達政宗を使い幕府を乗っ取ろうと計画。

それがバレて鎖国令を出され、おじゃんに。

そこからゼロからやり直し。

200年以上掛けて工作活動。
やっと19世紀末の1860年代に日本侵略に成功しましたとさ👏

今日はここまで。

 

6時半に畑へ。

落花生に再び緑色の液体が掛かっていた。

茄子の側にも、

おかげで茄子は花は咲けども実は成らず。

今夏は観葉植物と化して居た。

代わりに千葉に住む叔父からこれでもか、と送られてきた。

お礼にゴーヤを送りたいくらい、ゴーヤは豊作。

今も採れ続けているからありがたい。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣りと米麹作り。

気温は23度。

ギリ発酵機無しで行けるのでは、と毛布に包んだ。

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

チャーシュー、サワークリームスープ、水菜サラダ、ガーリックトースト、チーズ&ナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

19時に食べる事に。

 

歩数計は5873。

充実した一日だった。