arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1499日目と畑と小栗上野介童門版⑪

2025/10/17金曜日

6時半に起床し洗濯。

8時に畑へ。

青空の下、コスモスが見頃を迎えていた。

畑ではブロッコリーがぐんぐん成長中。

頂き物の白菜苗は壊滅したのでバックアップ用のキャベツ苗を植えた。

いつものように持参した液肥を施肥したら9時過ぎに帰路に。

そのまま買い物へ。

帰宅後、収穫した食用菊のもってのほかの下処理。

読書しようと思ったら夫が空腹を訴えたのでラーメンを調理。

自分も11時半から昨夜以来の食事。

食べ終わると、夫はサイクリングに出かけた。

午後は読書と調べ物。

昨日に引き続き、童門冬二著「小栗上野介

 

この八月十八日の政変により二千人の長州藩兵は国へ逃げ帰った。
これにより、遮二無二徳川幕府を窮地に追い込もうとする過激派は京都から一掃された。
その残党を新撰組がまるでドブネズミでも追うように探索。
発見するとすぐ牢獄にぶち込んだり処刑したりした。
たった13人で「大樹公(将軍)をお守りしよう」と決意した新撰組はやがて「壬生の狼」とか「人斬り狼」と呼ばれるように。
洛西の壬生に拠点を置いていたからである。
この政変にあたって孝明天皇は声明を発した。
「八月十八日以前に朕の言葉として世に出たものは全て誤りである。八月十八日以降の朕の言葉が正しい」
↑これによると、公家は天皇が発しても居ないのに勝手に勅令を出す、と言う事。

朝廷はこれが当たり前だったのな。

天皇の決裁無しに陪臣が勅令を出す、と。

これ、覚えといてな。

 


将軍家茂が主導する徳川幕政の根幹は「攘夷の実行・鎖港」の路線。
幕府人事も刷新。
老中では水野忠精が残り、脇坂安宅・小笠原長行井上正直・太田資始・酒井忠績・有馬道純は更迭された。
新に、越後長岡藩主の牧野忠恭や山城淀藩主の稲葉正邦陸奥白河藩主の阿部正外信濃高遠藩主の諏訪忠誠、丹後宮津藩主の本庄宗秀、三河岡崎藩主の本多忠民、蝦夷松前藩主の松前崇広などが任命された。
小栗上野介は再び勘定奉行に任命。
小栗は勘定奉行の自分を支えてくれる老中として牧野忠恭を選んだ。
牧野家は七万四千石という中程度の大名家だったが、小栗上野介の家と同じように「三河譜代の古参」
牧野家は特に家中に対する躾が厳しく家訓に有名な「常在戦場」という言葉がある。
「平和な時も戦場にあるという心構えを忘れてはならない」という意味である。
牧野忠恭は牧野家十二代藩主。
根っからの牧野家の出身ではなく三河国西尾藩主松平乗寛の息子で第十一代藩主牧野忠雅の養子になった。
しかし、英名の噂は高く部屋住の時代から幕府の高職に。
文久二年八月には京都所司代に就任。
文久三年九月からは老中に登用。
12/24に「外国事務管掌」の職掌を命ぜられ、元治元年の長州藩の外国人惨殺などの厄介な事件を処理した。
その誠実な対応ぶりは外国公使達を感動させ「問題解決には先ず牧野殿と接触した方が良い」という評判が立った。
公使達は牧野邸に出入り。
この牧野忠恭が懐刀として重用したのが河井継之助
↑てことは、外国勢はこの頃から長岡藩主と河井継之助の優秀さを知っていた、と。
で、日本侵略の為に長岡藩、潰さなあかん、と決意した、と。

 

河井は長崎にも留学し、備中松山藩山田方谷から陽明学を学び多くの事を学んだ。
「中央政治に努力する主人に財政上の心配をかけてはならない」と藩内の殖産興業を盛んに行った。
同時に農兵隊を組織。
「一朝事ある時はこの農兵隊で防ぐ」
と考えた。
彼は「一藩独立」の考えもあった。
「幕府を頼らずに、藩は藩の自己完結制を強める」
従って米作もどんな高い山の上でも行わせた。
その成果は多大な物があった。
牧野の方も小栗に特別な関心を持った。
小栗上野介勘定奉行になってから間もなく牧野家の江戸上屋敷で面談。
河井継之助も同席した。
小栗「当面幕府が取るべき策を私は次のように考えております。
一、日本の主権、特に外交権の所在が何処にあるのか確認する事(朝廷か幕府か)。
二、列強諸外国と対等に談判出来るように政府機能の拡充をはかる事。
三、その為に幕府の 軍事力と財政力を強化すること。
四、全国の大名への統制力を強化すること。特に長州藩薩摩藩に対する締め付けを強くする事。
五、そのきっかけとして、今廃止されている参勤交代制を復活する事。
六、参勤交代復活にはもう一つの目的があって、これは嘗ての江戸の繁栄を取り戻すきっかけになること。幕府のお膝元である江戸が、今のように衰微していたのでは幕府の財政力が更に弱まる事。また、江戸市民も日本の首都に住んでいるという誇りを失いごちなこと。」
などであった。
奇しくも河井継之助は小栗と同じ文政十年(1827)生まれ。
共に38歳。
実を言えば小栗はこの段階でフランスにおける郡県制を構想していた。
盟友の瀬兵衛が蝦夷でカションという宣教師から聞いたものだ。
日本の大名は徳川幕府が統制しているとは言え、なかなか命令に服さない。
特に長州藩薩摩藩
両藩共に身を削り藩政改革を行った事により凄まじい財政力を持っている。
大きな黒字を出しそれを元に軍拡。
探索によると「薩摩藩はイギリスから密かに武器弾薬を購入」
イギリスが怪しい。
イギリス公使はしきりに「日本の外交権は一体天皇にあるのか、それとも徳川幕府にあるのか」ということを、同じ外国公使仲間に吹聴。

というより煽り立てている。
イギリス「日本の外交権は徳川幕府になく、天皇にあるのではないか」と。
明らかに徳川幕府の主権能力に疑問を持たせるような言い方だ。

これに同調する者も次々と出る。
小栗にしてみれば、イギリスは事更に力のある大名家を幕府に背かせようとしている。
↑気づいている人は気づいていたと。
イギリスのやり方に。

今日はここまで。

 

17時から夕食作り。

大根とちくわぶの煮物、長芋&もってのほか、鮭、豚の生姜焼き、キャベツと水菜のサラダ、チーズ竹輪、ウォッカ梅酒ロック。

卵は長男のお土産。

会社で貰ってきたそう。

玉子醤油ご飯で美味しく頂いた。

お皿は長男が洗ってくれた。

ありがたく読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は8254。

充実した一日だった。