arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1498日目と小栗上野介童門版⑩

2025/10/16木曜日

5時過ぎに覚醒後、調べ物。

今日も一日雨なので畑はお休み。

7時半に起床し朝の家事。

8時半から読書と調べ物。

 

筆者は島崎藤村による栗本鋤雲の書き出しに注目。
藤村は栗本鋤雲が置かれた状況を「殿(しんがり)を務める立場」と見た。
他にも岩瀬忠震小栗上野介を「(江戸幕府の)後始末を怠らなかった人物として挙げている。」
「先生(栗本)は額も広く鼻も厚く耳や口も大きかったものですから〝おばけ栗本〟の異名を持ったくらいです。元々本草学という学問の家柄を継いで薬草の事に詳しいところから徳川幕府の製薬局に勤めた医者の出でありましたが事情があって(←蘭船に乗りたい言った)北海道の方へやられ箱館奉行組頭という役目に就きました。当時の箱館辺りはまだ蝦夷地と言いまして開けたばかりのさみしいところでしたが、先生は六年もその寂しい所に辛抱し病院や医学所を建てたり、薬草園を開いたり、松杉その他の木の苗を内地から移し植えさせたりしました。その『蝦夷地』に緬羊や牛を飼い養蚕の業に就く者が出来たのも先生の監督で始めた事なのです。 疎水の工事を起こして久根別川と言う所から舟を箱館へ通すようにしたの先生でした」
『明治の御世となってみますと栗本先生達が新しい日本の為に色々支度をしておいた事が後になってわかってきました。この国を開き世界諸外国と条約を取り結ぶと言う事も先生達の支度しておいた事です。下関償金の談判、横須賀造船所の建築、陸軍製の改革。それらは皆先生があの小栗上野介達と共に力を合わせて支度しておいた事です』

↑高松凌雲が箱館で勤務した箱館病院も栗本鋤雲が建てた。

 

岩瀬忠震安政の大獄で処罰された後若くして病死。
小栗と栗本の2人が〝しんがり〟を務めた。
栗本が言ったように「横浜の鎖港」など外国から言わせれば論外。
「先に通商条約を結んでおきながらそんな勝手なマネ(鎖港)は許さない。国際信義にも反する行為だ」
関係国は「あくまでも横浜を鎖港にするというのなら、武力に訴える」
↑当時常識化していた砲撃外交によると、そうなるわな。

 

この頃小栗暗殺の企てがあった。
首謀者は清河八郎
出羽庄内村清川村出身の郷士
小笠原長行によると、将軍警護のために中山道を上った浪士隊。
隠れた引率者が清河八郎
浪士隊は京都に着くと同時に清河の突然の宣言により「天皇直属の攘夷軍」に変質。
これに対し、「そんな事は出来ない。我々は徳川幕府に雇われた者だ。将軍の警護が役目なのだから、将軍が京都に居る間はその仕事に専念すべきだ」と決別したのが近藤勇以下13人の浪人。
これが、小笠原の言う「京都守護職預かりの新撰組」になる。
↑で、清河と江戸に戻った浪士隊は後に荘内藩預かりの「新徴組」になる、と。

 

残る210数名の浪士は「攘夷決行軍」として東海道を江戸へ。
命ぜられたのは「横浜鎖港を見届けること」
ところが、幕府首脳部の中で「そんな事は絶対にさせない」と息巻いているのが小栗上野介と判明。
「小栗を゙斬れ」と言うことに。
ところが、その暗殺実行寸前に清河八郎が江戸一の橋で逆に斬殺された。
小栗上野介暗殺の企ては未遂に。
文久三年から四年は次々と大事件が起こった。


・4/20 幕府は5/10を攘夷期限と奉答
・5/9 幕府は生麦事件の賠償金をイギリスに支払う
・5/11(笑)未明、長州藩、米、仏、蘭の商船を砲撃
・5/18 幕府は英・仏の守備兵の横浜駐屯を認める
・6/10 仏・英・米・蘭の四カ国は長州藩への報復を決議
・7/2 薩英戦争勃発
・8/13 「攘夷親征」の大和行幸詔勅発令
・8/17 天誅組の乱起こる(9/24壊滅)
・8/18 公武合体派(薩摩藩会津藩の穏健派)のクーデターで孝明天皇の大和行幸は中止に。過激派公卿は長州藩と逃げる←八月十八日の政変
・9/14 幕府は「横浜鎖港」を米と蘭に提議
・9/24 幕府は生糸など5品目の神奈川への直接積み出しを禁止
・10/12 公家の沢宣嘉と志士の平野国臣らが兵庫の生野で兵を挙げる(生野の変。10/14に鎮圧)
・11/1 薩摩藩、イギリスに10万ドルの賠償金を支払う。
・12/29 鎖港談判の為に外国奉行池田長発らヨーロッパへ出発
・12/30 徳川慶喜松平容保松平慶永山内豊信伊達宗城らは「朝議参与」を命ぜられる。
島津久光も翌年の1/13に参与に命ぜられる。
文久四年
・1/15 第14代将軍徳川家茂再び入京
・2/14 将軍家茂「横浜鎖港」を奏上
・2/15 突然、政事総裁職松平慶永京都守護職に、京都守護職だった松平容保が軍事総裁職に
・2/20 文久四年を元治元年に改元
・3/9 公武合体派による参与会議は解体。
・3/22 フランス公使ロッシュ着任
・3/27 水戸天狗党が挙兵
・4/25 英・仏・米・蘭は下関通行と横浜鎖港に関する覚書を幕府に通告
・5/17 訪欧の池田使節らフランスとパリ約定に調印
・6/5 池田屋騒動(京都三条小橋の池田屋に集結した尊皇派の残存志士を新撰組が襲った事件)
・7/19 蛤御門の変孝明天皇から京都出禁にされた長州藩が軍勢を率い京都に乱入。御所を守る会津藩薩摩藩と交戦。長州藩は敗退)
・7/24 幕府は英・仏・米・蘭に先に締結したパリ約定の破棄を通告。
将軍家茂「長州藩征伐」を諸侯に命令(第一次長州征伐)
・8/5 英・仏・米・蘭の四カ国艦隊が長州藩の下関を攻撃。
・8/14 長州藩、四国連合と講和

特に文久三年八月十八日の政変は江戸で冷や飯を食っていた小栗上野介達を喜ばせた。
これは、長州藩とその傘下の過激派志士達の余りにも無謀な行動に業を煮やした会津藩薩摩藩などが主軸となり温和派の公家と共に
・京都からの長州藩の駆逐
・これに同調する公家と志士の追放
などを一挙に行った軍事クーデターである。

薩摩藩は王政復古のクーデターの予行練習した?

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

厚揚げと筍の中華炒め、椎茸とニラのシュウマイ、しめ鯖サラダ、なめこの味噌汁、卵焼き。

これに玄米ご飯とウォッカ梅酒ロックをプラス。

19時に食べる事に。

 

歩数計は4767。