arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1497日目と小栗上野介童門版⑨

2025/10/15水曜日

5時15分に覚醒。

昨日から今朝にかけて雨。

畑はお休み。

読書と調べ物をする事に。

昨日に引き続き、童門冬二著「小説小栗上野介

 

長州藩は幕府が「五月十日を攘夷期限といたします」と天皇に奉答した事を良い事に、馬関海峡を通過する外国船を片っ端から砲撃。
↑狂人かよ。

 

長州藩の攘夷決行。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89

5/11(笑)午前2時

長州藩による攘夷決行。
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12710677212.html

文久三年五月十一日午前二時に決行。

砲撃されたのはアメリカ・オランダ・フランス。
イギリスを加えた四カ国で連合艦隊を編成して長州藩を叩いた。
更に攘夷派に押され老中小笠原を御役御免とし謹慎を命じた。
過激派と長州藩とこの上に乗る朝廷側の強い意志により「攘夷実行。横浜港閉鎖」を言い渡され将軍後見職一橋慶喜が江戸へ戻された。

小笠原長行は苦労人だ。
藩主の子でありながら遅くに生まれた為、世継ぎに慣れず冷や飯食いの部屋住だった。
が、乏しい手当を工夫し多くの学者達と交流。
下屋敷にある住まいを「背山亭」と名付け、庭の素晴らしさから訪ねてくる学者が増えた。
羽倉簡堂・川北温山・安井息軒・塩谷宕陰藤森弘庵・斎藤竹堂・野田笛浦そして藤田東湖などが次々とやって来て長行と歓談。
この事を聞いたのが前土佐藩山内容堂
容堂は幕府首脳部にその部屋住を幕府政治に役立ててはと提案。
すると小笠原長行は廃嫡届が出されていた。
理由は耳が聞こえず口がきけない、と。
小笠原家の事情だ。
山内容堂のバックアップで長行は病気全快報告書を提出。
小笠原家の世嗣となり、漸く老中格となった。


小栗上野介が三度勘定奉行に任命されるのは翌年の元治元年(1864)八月十三日。
この1年間は小栗にとって大事な充電期間。
これを脇から促したのが蝦夷から江戸に戻ってきた栗本瀬兵衛(鋤雲)との旧交回復。
小栗上野介の最大の業績と言われる「徳川幕府軍のフランス改良・その指導にあたるフランスからの指導教官の招聘・横須賀造船所の建設」などは全てこの栗本との二人三脚によって実現された。

そして、きっかけを作ったのは栗本瀬兵衛。
小栗が「日本で最初の株式会社」と言われる経済組織を神戸に作りかけたのも栗本と手を握り「徳川幕府の終末期を支えよう」と志した事による。
小栗と栗本は小さい頃から良く知っていた。
栗本が昌平黌に通ったのは小栗の屋敷からだった。
栗本は文政5年(1822)の生まれだから文政十年生まれの小栗の5歳年上。
小栗は栗本を兄のように慕っていた。

栗本が外で「おばけ」とからかわれると小栗が「そんな事を言うな!許さぬぞ!」と言って走り出し悪口を言った者をとっちめた。
奥医師の世界は非常にウェットでしきたりや先例を重んずる職場だから上役の医官長が「オランダ船への乗船は許さない」
と言えば「申し訳ありませんでした」
と素直に謝り引っ込んでしまえば良いのだが栗本はそんな事はしない。
「オランダ船に乗ることと、洋医学を学ぶ事とは別です」と突っ張った。
その為にクビになっただけでなく、蝦夷まで飛ばされる結果を生んだ。
蝦夷には結局何年居ましたか?」
久しぶりに栗本を迎えて小栗家は栗本を大歓待。
瀬兵衛「足掛け六年ですよ」
小栗「六年もですか。それは長かった」
瀬兵衛「いや、必ずしもそうではありませんでしたよ。箱館奉行所の活躍です。本当にこの国の事を憂えてやれる限りの事をやっています。遂、私もその意気に絆されて余計な事まで手出ししました」
栗本はそう言って自分が力を入れてきた薬園の経営や医学校の建設や綿羊の飼育などを話した。

そして、「全く奉行所の役人は心を合わせて一致団結しています。江戸に戻って来てどうも江戸城の空気が生温くて仕方が無い、箱館奉行所を手本にすべきでしょう」と加えた。
道子「江戸にお戻りになって新しいお仕事はどんなものでございますか」
栗本「目付てす」
国子「目付と言っても色々なお仕事がおありでしょう」
栗本「例の、横浜鎖港の交渉です」
小栗「大変な仕事です」
栗本「そうです。どうせ交渉は成功する筈がありませんから。エゲレスが言う事を聞くものですか!!!」
そして、「今の日本は単独で何かを成そうとしているが、到底無理ですよ。世界の情勢がまるっきり変わっている。世界の国々は力の原則で動いている」と述べた。

世界の国々は力の原則で動いている。

瀬兵衛「何処かの国と同盟すべきです。さしあたりフランスが良いと思います」
瀬兵衛「私は箱館でメルメ・デ・カションというキリスト教のお坊さんに会ってその事を痛感しました」
栗本の話によると、カションと言うのはジェスイット派のフランス人司祭。
安静5年(1858)フランスの対日条約交渉使節グロの通訳として来日。
一旦帰国するも翌年再び総領事ベルクールの公使館付通訳・書記として来日。
その後、公職を辞任。
箱館で布教活動。
この頃栗本は箱館奉行の命令で「日仏語交換教授」を拝命。
相手がカションだった。
当時日本人で仏語に異常な関心を持ち熱意を注いだのは栗本が最初の人物。
カションは単に日仏語の交換に力を尽くしただけでなく「フランスの国情と世界の情勢」を詳しく栗本に伝えた。
その時の問答集を栗本は『鉛筆記聞』として残している。
カションは文久二年(1862)に江戸へ。
近く赴任してくるフランス公使レオン・ロッシュの書記官兼通訳としての準備をする為。
その後、小栗は栗本の勧めもありカションに会い、様々な政策転換に。
徳川幕府軍のフランス式転換、フランス人教官の招聘とその指導、更に、横須賀製鉄所の建設など、始められたその全てがカションの肝煎り。
筆者は島崎藤村による栗本鋤雲の書き出しに注目。

続きは次回。

今日はここまで。

 

7時半に起床し、朝の家事。

9時半に買い物へ。

10時半に帰宅後、読書と調べ物。

12時に昨夜以来の食事。

残り物で済ませた。

17時から夕食作り。

ささみとゴーヤのケチャップ炒め、ししゃも、サラダ、コンソメスープ、長男のお弁当のおかずの卵焼き、ソーセージ、蓮根肉挟み、茄子、エリンギ、納豆、ウォッカ梅酒ロック。

昼はカレーを食べ納豆を食べなかったので夕食に納豆。

19時に食べる事に。

 

歩数計は4398。

充実した一日だった。