arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1492日目と畑と小栗上野介童門版④

2025/10/9木曜日

5時過ぎに起床し5時半に畑へ。

今日も今日とてイモムシ駆除。

そして、その近くで犬のものらしきウンコを発見。

田んぼやってた時も何回かある。

特に気にしない。

6時過ぎに帰路に。

帰宅後シャワーと洗濯。

ベランダガーデニングの水やりも済ませたら読書と調べ物。

 

昨日に引き続き童門冬二著「小説小栗上野介

 

江戸へ向かう途中の高崎で金井壮介は益満休之助に会う。
慶応二年(1866)12月のギリギリの段階になって最後の将軍に就任した徳川慶喜の反撃ぶりは凄まじかった。
全て小栗上野介の献策によるものである。
フランスと組んで
・徳川軍の近代化
・徳川陸海軍の強化拡充
・その為の軍艦や武器製造の為の造船所・工廠・製鉄所などの建設
・幕府並びに大名家の再編成
目的は小栗の主張する
徳川幕府の権威の再確立」
これに対し倒幕側の連中は驚き長州の桂小五郎など「慶喜の奴はまるで徳川家康の再来だ」と恐れた。
その為、「慶喜大政奉還したが実はもう一度自分の手に取り戻す魂胆がある」と警戒された。
この事態を憂慮した西郷吉之助は腹心の益満休之助に「おはん、江戸を撹乱して幕府を怒らせろ」と命じた。
↑この、西郷の指示によって江戸の人々は強盗や殺人、火付けの脅威に晒されたんやで。
とんでもない犯罪教唆野郎や。

 

西郷からの指示に益満休之助は伊牟田尚平、相楽総三、落合直亮などを連れ江戸に乗り込み「御用党」を組織。
浪人や無類を掻き集めた。
益満は御用党員になった浪人や無類の群れに
「江戸の商家から思うように金品を略奪しろ。逆らう奴は殺せ」

と命じた。
大っぴらに略奪や暴行が出来るのだから御用党に入った浪人や無類達は喜んだ。
↑西郷先生お墨付きの強盗殺人許可♥

 

御用党の連中は略奪や暴行を働いた後はこれ見よがしに堂々と三田の薩摩藩邸に戻って行った。
「俺達の本拠はここだ」と言わんばかり。
↑犯罪者の住処:薩摩藩
犯罪者の飼い主:薩摩藩

 

幕府は江戸市中取締の荘内藩に「御用党の本拠攻撃」を命じた。
↑御用党の本拠:薩摩藩邸(笑)

 

指揮者の益満休之助は幕府からの攻撃を待っていた。
三田の薩摩藩邸の裏は芝浦の海。
益満はそこにいつでも脱出出来るだけの船を用意していた。
沖には薩摩の軍艦が停泊。
砲撃を受けると益満はすぐ「全員裏から小舟に乗って沖の艦に乗り移れ」と命令。
益満は逃げずに表に出て「薩摩藩の益満休之助だ。御用党の責任者である」と名乗り投降。
本来なら御用党の指揮者だから打首になる筈。
が、ならなかった。
↑幕府首脳部の中に内通者がおる。

 


後に、益満が江戸無血開城の交渉の使者として西郷に遣わされたのを見ると、勝しかいない。

勝の方から「益満を預かりたい」と申し出たのかもしれない。
勝は「江戸百万の市民を戦火から救う為には西郷と一談判せざるを得ない」と考え「その時は御用党の指揮を取った益満が役に立つ」と温存したか。
事実その通りになる。

金井が高崎で益満に合ったとき彼はまだ駿府に行っていない。
勝に頼まれて小栗の動向を調べに来たという。
金井はそれを教えた。
「小栗の勢いは恐るへき物があります。彼は今東善寺に仮住まいをしておりますが目下近くの観音山に新しく城を築いているという噂があります。また学校を建てて軍事訓練を施す予定だということも聞きました。新政府に対し謀反を企てている事は疑いがありません」
↑金井壮介は嘘つき。

 

徳川幕府の中枢に座れるのは三河以来徳川家に忠節を尽くしてきた譜代大名に限られていた。
↑外国勢にとって、邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔で邪魔でしょうがなかった。

 

関ヶ原の合戦以後、徳川家に忠節を尽くすようになった大名は外様大名と区分され政権の座につけない。
譜代大名は万年与党。
外様大名は万年野党。
それが幕末になって老中阿部正弘の英断により突然「譜代大名外様大名の連合政権」が実現しそうになった。
阿部は「外国列強からの圧迫が激しい現在、最早譜代大名だけではこの国難に対応する事は出来ない」と判断。
「能力のある外様大名にも幕政に参加して貰う。先ず、大海に面した地域に領地を持つ大名を集めよう」
そこで、太平洋、日本海玄界灘に面した地域に領地を持つ大名に声を掛けた。
特に彼が期待したのが薩摩藩島津斉彬
↑この方も暗殺された。
子供達も。特に男児は全員夭折。哀悼。

 

阿部は更に、アメリカからの特命全権大使ペリーが持ってきたフィルモア大統領の国書を日本文に訳し日本中にばらまいた。そして
「どしどし意見を出してもらいたい」
と告げた。
これを今風に言えば、
・情報公開
・国政への国民参加を促す
ということ。
これにより幕府内の人材活用が活発に行われ、特に
「海外情勢に関心を持つ武士」
が登用された。
小栗上野介の立身出世もこの阿部路線によって道が開かれた。
しかし上野介は必ずしも阿部路線に賛成していた訳では無い。
「日本人はまだ政治参加などに慣れていない。いきなりこういう事を行うと徳川幕府そのものの存立が危うくなる」
と、危惧した。
暗殺された井伊大老
「阿部はバカだ。今からあんな事を急いでやれば徳川幕府は潰れてしまう。阿部は自分で幕府の土台を掘り崩しているようなものだ」
と罵った。この井伊の予言はあたる。
阿部が情報公開と国民の国政への参加を促してから十数年のうちに幕府は潰れた。
↑悪いのは砲撃外交で開国を迫ったアメリカやイギリスだから。
こいつらが開国しないと爆弾撃ちまくるぞ、と脅しに来たんよ。
人々が平和に暮らしていた日本に。

 

小栗上野介を登用してくれたのは井伊直弼
小栗は井伊のやり方にも全面的に賛成していない。
「井伊殿は古い」
と思っていた。
小栗は
「日本は孤立しては生きていけない。国際社会の中でどうすれば生き抜く事が出来るかを探らなければならない」
そうなると、
「今の徳川幕府の体制では、絶対にこの国難を切り抜ける事は出来ない。再編成する必要がある。しかし、それには徳川幕府の権限をもう一度強化拡充する事が大切だ」
日本の政権は源頼朝の時から武士に任されて来た。
「朝廷から政権を委任された以上、その責任は最後まで果たさなければならない」
その責任を果たさないままに
大政奉還」などを行った徳川慶喜に対しては不満だった。

慶喜公は大政奉還=イギリス支配てわかっていたのかね。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

麻婆茄子セロリ、里芋とゴーヤの煮物、長男のお弁当のおかずの卵焼き、ソーセージ、蓮根、サラダ、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。

19時から食べる事に。

 

歩数計は5451。

充実した一日だった。