225/10/8水曜日
4時に起床し読書と調べ物。
3/4の早朝から一揆は各方面から権田村に向かって攻撃を開始。
しかし、小栗勢は、あちこちで農家を焼き払ったり金品を強奪している一揆勢には目もくれず、まっしぐらに椿名神社を目指した。
忠道の指揮は見事だった。
流石に、シャノワンヌやパワーに指導を受けた近代将校だった。
椿名神社は田んぼの真ん中にある。
そこで忠道は率いる二十余人の部下を見事に散開させた。
そして、「進め!」と近代化された軍隊で使われる号令を掛けた。
訓練された精兵は躊躇う事なく田の中を鉄砲を撃ちながら進撃。
一人一人がバラバラに進むようだが全体の統制が取れていた。
その為、命中率も高い。
忠道指揮する小栗隊が暴徒3人を射殺。
更に、槍で突入。
1人を突き殺した。
荒川祐蔵と沓掛藤五郎が指揮する二つの隊は40数人の軍勢。
東善寺の裏山にあたる諏訪山から攻めてくるという報告があった。
諏訪山の近くに鉄火や花輪の村、峰続きに上ノ久保の集落がある。
この二方面から攻めてくるだろうと予測し待ち構えていると、一揆勢が攻めてきた。
二つの隊は銃を撃ちながら進軍。すると暴徒側はたちまち逃亡を゙始めた。
金井壮介は東善寺そのものを攻撃。
金井達は本陣を置いた宮原の役職宅から北の薬師堂の境内に帷幕を張り、畳を横に並べて盾とした。
流石に金井は浪人とはいえ武士。
恐らく長州奇兵隊の戦法を生かした。
この方面には用人の塚本真彦や剣の達人池田伝三郎、大井磯十郎の指揮する約50人が権三石に散開。
暴徒の攻撃に備えていた。
暴徒達は川を渡って攻めて来た。
塚本達は一斉に銃撃を、加えた、
既に榛名神社の本陣を攻め落とした小栗忠道の指揮する一隊が応援に駆け付け。
暴徒達は渡りかけた烏川の中でくるりと反転。
逃げ始めた。
忠道は「追撃!」と叫び逃げる暴徒達を追い始めた。
暴徒の追撃に移った小栗勢は流石に武士の本領を発揮。
烏川を渡って川浦村宮原の敵本陣に突入。
剣の達人池田伝三郎や大井磯十郎が奮戦。
2人は大刀を翳して敵陣に斬り込み、忽ち暴徒5名を殺した。
暴徒達は驚き蜘蛛の子散らすように逃散。
敵の本陣を占領した小栗勢は気勢を上げた。
僅か百数十の小栗勢が二千人を超える一揆勢を追い払った。
↑2000人vs100人だった。
この、金井壮介企画の暴動により犠牲となった者の中には付近の村から徴収された農民も。
この近辺には坂下5ヶ村と言って、権田村・川浦村・岩永村・水沼村・三ノ倉村があり、これを「組合村」と言った。
これらの村々が権田村を除いて暴徒の首領達に「一軒に一人の割合で男子を出せ」と命ぜられ、断ると家を焼かれる。
不承不承動員された男子達を一揆側では最も危険な前線に立てた。
↑卑怯やな。
特に本陣を置いた宮原地域では一揆暴徒の本隊が薬師堂に頑張り、これを防衛する形で動員された農民達が武器を持って守らされた。
本陣の方ではこれらの動員した農民達に鉄砲の筒先を向けていた。
妙な動きをすれば忽ち撃ち殺すという構え。
↑これが長州奇兵隊のやり方なのか?
日本人には考えられないやり方。
これ思い出した。
元寇 女子供手の甲に穴
https://www.sankei.com/article/20140614-FJZLXDHVAVP7JFWJC4F27EL25A/
無理やり徴兵した農民を最前線に立たせるとか。
本陣の防衛だけでなく、権田村の攻撃に加わった者も沢山居た。
しかし、この人々には権田村にも多くの親戚や知人が居る。
顔を見合わせ「とても親戚を撃つ事は出来ねえ」と呟き、動員された農民達の殆どが鉄砲を宙に向けて撃った。
気付いた暴徒が「貴様ら何をやっている!」と怒り銃床で殴り倒した。
逃走しながら金井壮介は我が意を得たりと満足。
↑金井壮介は長州藩浪士な。
「小栗上野介は領地で政府軍に歯向かえるだけの軍勢を持っている」という事。
金井壮介は西郷先生に報告する為に江戸に向かった。
↑強盗団首領金井壮介の上司は西郷隆盛だったのか。
今日はここまで。
5時半に畑へ。
今日はフェンネルにイモムシは居なかったが里芋の根元に見たことない幼虫が居た。


取り敢えず、遠くに追っ払った。
6時過ぎに帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
やる事やったら、9時半に買い物へ、
12時半に帰宅後、昨夜以来の食事。
納豆と親子丼と味噌汁でお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
16時半から夕食作り。

サンマと大根おろし、サラダ、昼の残りの味噌汁と親子丼、昨日の煮物、長男のお弁当用のおかず、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。
18時半にご飯が炊けたら食べる事に。
歩数計は10810。
充実した一日だった。