2025/10/7火曜日
5時に起床し5時半に畑へ。
今日もイモムシがお出迎え。

寒いのにご苦労さん。

今日は上手に撮影出来た。
いつものように液肥を施肥したら6時10分に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣りと中華麹の材料をヨーグルトメーカーにセット。
その残滓でドレッシング作りも完了。
やる事やったら読書と調べ物。
一揆側の親分である鬼金と鬼定は二人の名前で近村に行き「人数差出の回状」を出した。
「小栗征伐に一軒につき一人の人数を出せ。従わない家は焼き払う。しかし、小栗が隠している巨額の財宝を手にした際は参加者に均等に分けてやる」
困った近村の名主達は小栗に対し「一揆の申状は必ずしも当を得たものとは思えません。そこで、どうか小栗様のご家臣のうち、どなたか一揆側へ差し遣わされて、是非談判をして頂きたい」
↑長州藩の浪士金井壮助が廻させた回状はマジ迷惑な回状だったろうね。
みんな平和に暮らしていたのに。
小栗はそれを諒承し、家臣の大井磯十郎を兄と共に派遣。
磯十郎は権田村亀沢の農家の出身。
利発な性格だったので10代の少年の頃から神田駿河台の小栗邸に呼び武道と学問を教えた。
小栗上野介は自分が作った横浜陸軍伝習所をあるとき江戸の越中島に移し、新しく講武所と称した。
講武所は陸軍所となり、ここでフランスのシャノワンヌ大尉やパワーなどのフランス士官の教官が指導。
この講武所で学んだ者に小栗の養子忠道、塚本真彦、荒川祐蔵、佐藤銀十郎、大井磯十郎などが居た。
↑小栗は後進を育てる事にも尽力していた。
自身の養子のみならず領地の若者達も。
磯十郎は身長も高く体格もがっしり。何より肝が太い。どんな時も慌てない。落ち着いて事を処する。それを見込んで一揆軍への特使として指名した。

↑真ん中が大井磯十郎。
小栗が見込んで権田村から呼び寄せ陸軍歩兵として講武所で学ばせた。
ちなみに左隣は小栗の養子の又一。
この2人は斬首された。
右隣は佐藤銀十郎。
小栗夫人の道子を護衛し会津まで送り届けた後、会津藩の町野隊に加わり参謀として大活躍。
悪魔の銃弾に散った。
前途ある若者達が散った。
哀悼。
磯十郎は兄に大小の刀を渡し丸裸で本陣の全透院へ。
その道筋には一揆の人数が溢れ雪が降って寒いので焚き火をしながら、村々から挑発したどぶろくを呑み酔っ払っている。
「小栗征伐だ!」
「小栗の財宝を早く奪おう!」
と喚き合っている。
大井兄弟が小栗派遣の使者とわかると、「叩き殺せ!」「小栗征伐の血祭りにしろ!」と叫ぶ者も。
全透院に行くと中央に鬼定が、その脇に鬼金が居た。
浪人が一人いる。
磯十郎は(これが金井壮介だな)と感じた。
磯十郎「小栗上野介の名代で参った家臣の大井磯十郎だ。お主達はしきりに小栗征伐と叫んでいるが、一体小栗上野介に何を求めようとするのか?」
鬼定「俺達の望みは金以外に無い。小栗が江戸城から持ってきた軍用金を残らず渡せ。渡さぬ時は此処に居る人数で権田村に繰り込む。そして貴様達を殺し有り金を残らず奪う。そんな目に遭う前に、金を渡した方が利口だ。どうだ?」
↑この犯行声明見る限り千人規模の強盗団 led by 長州藩浪士金井壮助。
小栗は強盗団に対する正当防衛やろ。
強盗1000人vs小栗隊100名やで。
どっちが犯罪者でどっちが卑怯か一目瞭然。
なのに取調べもせず、小栗が斬られるて違法やろ。
磯十郎「軍用金など全く無い。単なる流言にすぎない。お主達はその流言に惑わされているのだ」
鬼定「いい加減なことを言うな!小栗が百数十万両の軍用金を権田村に持ち帰った事は確かな証拠がある。噓を付くと許さんぞ!」
「軍用金など一文も無いがそう言ったのではお主達もおめおめと引き下がる訳にも行くまい。これは殿から預かった五十両だ。これで引き取って貰いたい。そうすれば、村々にも迷惑が掛からない」
鬼定「五十両のはした金で俺達を誤魔化そうとする気か!せめて一万両くらいの金を持ってこい。話はそれからだ」
↑な?
一揆やなくて強盗団やろ?
金の要求してるで。
磯十郎「わかった。止むを得ぬ。お主達の思うようにされたい。しかし、もしお主達が不当な行いに出れば我々もそれだけの応じ方はするつもりだ。少なくとも暴徒に立ち向かうだけの技は学んでいるつもりだ。再会を楽しみにしよう。ご無礼する」
鬼定が大声を上げた。
↑暴徒じゃなくて強盗団な。
「談判決裂だ!これから小栗征伐に出かける。みんな支度しろ!」
磯十郎の報告が終わると小栗は「確かに五十両の金では平和的な解決は無理だっかもしれない。大井に余計な苦労をさせた。この上は、明日は一揆との決戦を覚悟せねばならぬ。それぞれ持ち場に戻って準備を固めて貰いたい」
一揆側は雪の夜道を辿って権田村目指し前進。
本陣は椿名神社に移された。
指揮官は博徒の鬼定・鬼金。
長州藩浪士金井壮介は〝陰の参謀〟なので正面から一揆を指揮するような事はしない。
付近の村々も騒ぎに巻き込まれ、宮原部落の名主宅や大明神山の浅間神社も暴徒の拠点にされた。
そこで、小栗は藤七を呼び、年寄と婦女子を退避させるよう指示。
藤七は榛名山の西麓に避難させる事に。
残った戦闘員は小栗上野介を始め養子の忠道、用人の塚本真彦、給人の荒川祐蔵、家臣の多田金之助、渡辺太三郎、沓掛藤五郎、大井磯十郎、佐藤銀十郎、池田伝三郎など約二十人。
村内ではかねてから農兵隊員としての訓練を受けていた若者や猟師などが百人余り集まった。
手にする小銃約三十挺、それに猟師がそれぞれ猟銃を持参。
小栗上野介はこれらの人々を五つの隊に分けて編成。
一隊は小栗上野介が20余名を指揮。
他に、荒川祐蔵、沓掛藤五郎、塚本真彦、池田伝三郎、大井磯十郎達が隊長に。
荒川・沓掛隊は東善寺の裏山である山ノ手の花輪、鉄火、上ノ久保方面へ向かった。
塚本真彦・池田伝三郎・大井磯十郎などが率いる二つの隊は権田村上宿から川田橋付近に陣基を゙構えた。
これは宮原の敵の本陣に対峙させるものである。
「敵がどれだけ多かろうと、本陣さえ落とせば、必ず烏合の衆である暴徒は四散する」
小栗は作戦をそう立てた。
自分の率いる20余人の歩兵隊を養子の忠道に指揮させた。
今日はここまで。
16時から夕食作り。

鮭、鶏むね肉登利平風、サラダ、里芋と油揚げの煮物、長男のお弁当のおかずの卵焼き、ソーセージ、茄子、鶏つくね。
これにご飯とウォッカ梅酒ロックと残り物をプラス。
19時に食べる事に。
歩数計は7081。
充実した一日だった。