arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1489日目と小栗上野介童門版①

2025/10/6月曜日

4時45分に起床し5時半に畑へ。

今日も今日とてイモムシ駆除。

液肥を施肥したら帰路に。

 

6時半に帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダガーデニングの水遣りを済ませたら藍建てチェック。

品温26度。気温25度。pH9から10。

かき混ぜるとカラカラカラと音をさせ泡がプクプク。

布巾を2枚染めた。

2分間浸したあと、水で洗っているとバケツに飛び散った飛沫が青いのに気が付いた。

薄っすら青く染まった。

引き続きおやつのオートミールクッキー作り。

今日は味醂粕とアーモンド、ココア、サワークリーム入り。

やる事やったら読書と調べ物。

 

今日からは童門冬二著「小説小栗上野介

 

小栗と共に処刑された家臣が知りたくて、まずは、後ろの方に書かれている箇所を先に読んだので、そこから始まる。

 

東山道鎮撫総督 岩倉具定(岩倉具視の息子)

江戸城無血開城の恩人とされた勝海舟

が、小栗にすれば

「勝はもともと元治元年(1864)九月十一日(笑)に西郷に幕府の最大秘密を売り、しかも幕府を倒す事を勧めている。西郷にすれば勝は恩人だ。従って勝の出した条件を飲むのも無理はない」

↑幕府の最大秘密て何?

気になるから読んでみる。

 

ところで、東山道鎮撫総督は岩倉具視三男具定が、副総督に弟具経が就任。

参謀は薩摩藩の伊知地正治と土佐の乾退助。

東海道東山道北陸道の三道の鎮撫総督軍はそれぞれ沿道の藩を平定しつつ江戸に向かって行った。

が、中で際立って「報復の処刑」を行ったのが東山道軍。

↑こんな残酷な事をした人達が自分のひいおじいちゃんの時代に居たことに驚く。

しかも、明治新政府の重鎮になったんやで。

 

東山道軍の先鋒として浪人集団(笑)「赤報隊」があった。

隊長の相楽総三は独断で「年貢を半減する」と触れ周り味方を増やしていたので信州諏訪で捕らえられ赤報隊は全員処刑された。

↑相楽は独断では無く西郷の了承を得ていた。

色んな本に書かれている。

 

 

この時、相楽達の首を斬ったのが原保太郎。

元々江戸の斎藤弥九郎道場で学んだ事もある剣の達人。

やがて京都に行き隠れ家に居た岩倉具視の用心棒に。

そこから、東山道鎮撫総督府軍副巡察使に任命された。

ちなみに、小栗上野介達を襲った新政府軍のメンバーは次の通り。

巡察使 大音龍太郎

巡察使 豊永寛一郎

同 原保太郎

監察使 山田熊蔵

会計方 森彦太郎

大音・豊永・原達は策士岩倉具視の家に転がり込んだ食客

ウィキペディアにもそう書かれている。

 

原保太郎22歳。

豊永貫一郎に至っては16歳の洟垂れ小僧。

こんなガキ共に幕府の勘定奉行を務めた小栗上野介の処刑を執行させる官軍。

 

推測するところ、大音・豊永・原達は何れも策士岩倉具視の家に転がり込んだ食客

それが王政復古によって岩倉の勢力が急に高まったので息子が参謀を務める東山道軍に加わった。

言ってみれば「居候か公式に然るべきポストを得た」

↑岩倉にしてみれば「(何でも言う事を聞く)腹心が然るべきポストを得た。

 

東山道軍のこのメンバーは小栗上野介を殺しただけでない。赤報隊相楽総三隊長を斬った後、甲府では甲陽鎮撫隊と名を変えていた旧新撰組近藤勇土方歳三達を敗北させた。

更に、下総流山で再挙しようとした近藤勇を捕らえ、これを江戸の宿場である板橋で斬首。

小栗の場合もそうだが、当時の近藤勇は既に「若年寄格」という幕府でもれっきとした閣僚級の人物。

その首を斬るというのは如何に東山道軍の参謀連中が「小栗憎し、近藤憎し」という怨念に燃えていたかを物語る。

 

 

この「報復の為の処刑軍団」である東山道軍に目を付けられたのが小栗上野介の不運。

↑わいは、小栗が貨幣の印刷権を三井に与えたからだと思う。

それ、ロスチャイルドのものだから。

あと、アメリカで日本の小判とアメリカの金貨の金の含有量を調べさせ、日本の小判の方が金の含有量が多い事を証明した。

それによって、貨幣の交換レートの不均衡を訴えた。

当時、その不均衡により日本から金(小判)が大流出。

日本の貨幣制度に大混乱が起きていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

 

高崎・安中・吉井の三藩は観音山に何が作られているか知っていた。

が、大音、豊永(16歳)、原(22歳)などは承知しない。

小栗上野介は既に養子の忠道他を釈明の為先に訪れた三藩の代表者と共に高崎へ向かわせていた。

が、襲ってきた三藩の兵は有無を言わさず小栗を捕縛。

この時、家臣の荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎が供した。

小栗上野介が権田村に到着したのは3/1。

2日、3日と経つにつれ一揆の群れは数を増した。

中心になっていたのが鬼定、鬼金と言われる2人の博徒

鬼金と言うのは俗に下駄金と言われる男で相撲の鬼風と手を組んで浮浪の徒を集めていた。

「義の為に金品武器を調達する」と言い、群馬郡一帯を襲い、やがて南下。

下野田、上野田、有馬、石垣、渋川などの各村を襲撃した。

鬼定の一隊は下野国足利のあたりから興った。

東毛から前歯、高崎周辺を襲った。その間暴徒の仲間がどんどん増えて行った。

もう一隊が長州浪人で薩摩御用盗の一人だった金井壮介。

金井は秩父から一揆を興し、藤岡、富岡、安中と略奪を続け、鬼定の隊と室田で合流した。

「小栗は莫大な財宝を持って権田村に引き上げた。これを征伐して小栗の持ってきた幕府の財宝を奪おう」と持ちかけた。

金井自身も小栗が本当にそんな財宝を権田村まで持ってきたのかどうか確認していない。

しかし、江戸近辺まで押し寄せた官軍(新政府軍)の中では「江戸城から旧勘定奉行小栗上野介が巨額の幕府の金をもって逃げた」という噂がしきり。

金井壮介はこの噂を利用。

彼にすれば「日本各地で一揆を起こさせ、徹底的に幕府権力の匂いを消し去る事が、新政府が新しい政治を行うのに役立つ」と信じていた。

だからこそ、彼は西郷吉之助の幕府そそのかしである御用党に加わった。

「目的さえ正しければ手段は選ばない」という考えを持っていた。

ましてや、今は混乱期。

どさくさ紛れの多少の悪行は許されると信じていた。

↑金井壮介は長州藩士で薩摩御用盗のメンバー。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

三色丼(炒り卵、ゆで卵、ゴーヤ、ひき肉炒め)、鮭の粕味噌汁、ご飯、サラダ、大根と昆布の梅酢漬け、茄子のべったら漬、チーズ竹輪、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は7449。

充実した一日だった。