arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1487日目と畑と小栗上野介㊳

2025/10/4土曜日

4時45分に起床し5時15分に畑へ。

イモムシ達がお出迎え。

液肥を施肥したら6時45分に帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水やりと納豆作りと味醂絞り。

9時から読書と調べ物。

昨日に引き続き、星亮一著「小栗上野介

 


この頃、慶喜と勝は着々と恭順の意向を固め、2/9には幕閣の全てを免職とした。
↑簡単に言うけどさ、幕臣はおまんまくいあげやん!

 

忠順の権田村への土着願は慶喜に進達され農兵の募集も認められた。
忠順は権田村への出立を2/28と決め準備。
2/10,会津の外島が来訪。
会津へ来ないかと打診された。
外島によると「西郷や大久保は板倉公や小笠原公もさることながら小栗殿を最も気にしている様子でこさいます。小栗殿が立てばフランスが付き、事は容易ならざる事態になる。そう踏み既に刺客を放ったとか」

 

会津藩からは都合3回その様な話があり、27日には神尾鉄之丞と秋月悌次郎が来て、「我が藩では小栗様に家老横山主税の屋敷を用意致しております」と伝え、「それから仙台の玉虫君が小栗殿にくれぐれも宜しくと伝えて参りました。仙台にも動きがありそうにございます」
と懐かしい便りも寄せ、これから会津に帰ると深々と頭を下げた。
後になって想えばこれが人生の岐路であった。
忠順らは初日は桶川、二日は深谷、三日目は高崎に宿泊。
3/1の夕方漸く権田村に。
母と妻、養子の又一と養女の鉞子、用人の塚本真彦の家族、それに池田伝三郎、荒川祐蔵、沓掛藤五郎、多田金之助、渡辺五三郎。
高崎から信州街道に入り烏川沿いの山並みに入る。
「あの山が榛名山です」磯十郎が指差した。
この辺りで塚本は「殿、どうもつけられているような気がします」と忠順に囁いた。
塚本「見張りを怠ってはならぬぞ」と又一と銀十郎が銃を担いで後ろに回った。
夕刻、仮住まいとなる曹洞宗東善寺に到着。
妻と母は疲労困憊で早々と就寝。
男達は忠順を囲んで夜遅くまで呑んでいた。
夜も更けた四ッ半(十一時)頃、村人が隣の三ノ倉で火を焚いて気勢を上げている者がいると駆け込んで来た。
一揆が方々で起こっていますが権田村はそのような事はは一切ございません」
翌朝5時に隣の部屋の母がごそごそと荷物を開けている音で目が覚めた。
すると、「殿さまあ」と藤七の声がした。
村年寄の中島三左衛門と一緒である。
「三ノ倉の様子がただごとでではございません。流れ者博徒が全透院に陣取って権田村を襲うと百姓共をけしかけております」
↑三ノ倉は「道の駅くらぶち」がある辺りな。

 

「これがその書き付けで」と三左衛門は博徒の回状を出した。
「村々人数一軒に付き一人ずつ借用仕り様。鉄砲これあり候者は鉄砲持参なさるべく候」
とあり、そこに金井壮助なる名前があった。
三ノ倉の全透院とここまでは一里そこそこの距離。
藤七も三左衛門も知らないと言う。
↑ネットで検索しても出てこない。
奴らの得意な偽名やな。

 

一日様子を見ることにしたその夜、三左衛門が来て全透院には数百人もの百姓が集まり、
「小栗は金貨を貯め込んでいる。それを奪え」とホラ貝吹き鳴らし、気勢を上げているという。
↑強盗示唆やん。
権田村に着いた翌朝にこれやで。
待ち構えていた、計画的集団強盗やん。

 

忠順は一族郎党を集め、協議。
翌朝、磯十郎に50両を渡し「穏便に済ませよ」と命じた。
磯十郎が兄の伝兵衛に刀を持たせ雨の中、全透院へ。
暴徒の数は千人から二千人にと膨れ上がり、全透院には竹槍や鉄砲を手にした男共が殺気立って犇めいていた。
↑これ、みんな群馬県出身てこと?
磯十郎と伝兵衛は「来たな野郎っ」という罵声を浴びながら全透院の階段を上り金井壮助に面会を求めた。
傍らにこの辺りで名前が知れた博徒の鬼金、鬼定が居た。

博徒の本場上州。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/635ff550436e4cde5712a9bdf56c4238

 

金井は腰に長刀を差し、頭は大髷に結い、新撰組の隊士のような風貌。
金井「磯十郎と言ったな。いい度胸だ」
どんと刀を立てて凄んだ。
磯十郎「我が殿は幕府の公金などただの一文も運んではおらぬ、これは我が殿の志、穏やかにお引き取りを願いたい」
磯十郎が五十両を差し出すと
鬼金「それっぽっちで引っ込めるかぁ!」
磯十郎「ならば、我が殿にも考えがこざる」
金井「小栗によく言っておけ。天下は薩長のものとな。下手な真似をすれば首が飛ぶとな」

天下は薩長のもの
天下は薩長のもの
天下は薩長のもの
天下は薩長のもの
天下は薩長のもの

磯十郎の報告を聞いた忠順は母や妻、鉞子と塚本の妻子を村人の家に匿い、小栗歩兵20人程と村の猟師や腕の立つ若者100人余を集め東善寺の周辺を固め、相手の出方によっては一戦を交える事も止むを得ぬと判断した。
幸い又一を始め16人が旧幕府陸軍でフランス式歩兵訓練を受けており、十挺程の元込め銃とピストル数挺が手元にある。
四日目の朝、六ッ半(午前七時)三ノ倉の暴徒達1000名が権田村目指して行動を開始。
敵先鋒は早くも目と鼻の先の椿名神社まで進み「わぁー」と気勢をあげ、手に手に鉈や鎌を振りかざし、中には抜き身の槍や刀をギラリと光らせ、突き進んで来た。
↑戦国時代再び。
学習能力無し。


こうなったら防ぐしか無い。忠順「手筈通りかかれっ」
東善寺の前に荷車に樽を縛り付け縄を巻いた擬装大砲を備え、火薬も詰めた。暴徒が迫ったらドカンと威嚇するつもりである。
忠順は自ら鉄砲を握り、又一と歩兵20名程を率い、先制攻撃を掛けた。
又一ら小栗歩兵の活躍も目覚ましく、忽ち数人を討ち取り、更に山手に駆け上がって烏川を上ってくる暴徒に銃弾を浴びせた。
裏山は荒川祐蔵、沓掛藤五郎が猟師達を率いて食い止め、大井磯十郎、佐藤銀十郎、池田伝三郎らは容赦なく暴徒を銃撃。
暴徒は20人程の死者を出して逃亡。
10名は捕らわれ東善寺の土蔵に押し込められた。
戦いは昼前に終わり、金井壮助も鬼金、鬼定も三ノ倉から姿を消し暴徒騒ぎは落着。
夜になると暴動に加わった川浦、岩永、水沼、三ノ倉の村役人達が「今後は何事も小栗様と談合の上、致します」と詫び状を゙出し、死者と囚われの者を引き取った。
「今日の戦に歩兵銀十郎義は頗る奮戦致し、遂に四人打ち取る。実に命中は感服程の銃手にこれあり候」
忠順は銀十郎の活躍をこう日記に記し後日小頭に昇進させている。
忠順は6日から馬で観音山に通い整地を始めた。
藤七や三左衛門が一部整地を始めていてくれたおかげで山上に広場が出来上がっていた。
母は杖をついて山に上り、お道は駕籠で見に来た。
妻は眼下に広がる光景に暫し見惚れた。
ここは東善寺に近い忠順の持山で榛名山から伸びた裾野が烏川に落ち込む台地にあった。
左右を深い渓流に挟まれ、北は榛名山杏岳、西は浅間隠山から岩岳、笹塒山を望み、眼下に流れる烏川沿いに権田村を始め近隣の川浦、岩永、水沼、三ノ倉の各村が見下ろせた。
「馬場はこの辺りで、この辺りは畑を開き、ここが御屋敷ではいかがでしょうか」
藤七が大まかな設計図を造っていた。
宅地の辺りは四百坪程の広さがあり馬場や畑を加えれば江戸の屋敷の十倍はある。
忠順一家はこの日から四月末までの五十日間、夢にあふれた暮らしをしている。
忠順は毎日のように観音山に行った。
14日には塚本の母の手でお道の着帯が行われた。
16日には村の大工に図面を渡し住まいや長屋の工事を始めさせた。
住まいは間口12.5間、奥行き7.5間、総二階建ての大きな建物で、玄関に式台を設け、正面に控えの間、襖を開けると用人達の小部屋、家族の部屋に繋がる図面だった。
厠屋と台所は東側。
その辺りに女中や従者達の小部屋も造る事に。
家臣の住まいは三棟の長屋を建てて当てる事に。
費用は千両。
知人から借金してきた金で、あるとき払いの催促無し。
この中から取り敢えず30両を払った。
整地代である。
一、お母様、お鉞も近辺へ摘草に相起す。
一、お道、お鉞並びに女ども近辺へ摘草に相起す。
忠順の家族は権田村の自然を満喫。
江戸の引っ越し荷物40個も到着。
3/25には江戸から用人の祐左衛門が来て
「江戸はもう大変な騒ぎでこざいます。屋敷の方は特に変わったことはございませんが、大平備中守様が彰義隊に殺されました」
大平は忠順に500両を用立ててくれた人物である。
忠順に異変が迫っているなど気づく人は一人も居なかった。
↑帰農願い出して、慶喜公に認められたのに、ぶっ殺されるんよ。

東山道軍に。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

サンマと大根おろし、サラダ、つまみ、ウォッカ梅酒ロック。

これに残り物をプラス。

18時半に食べる事に。

 

歩数計は8024。

充実した一日だった。