2025/10/3金曜日
4時45分に起床し5時20分に畑へ。
今日も今日とてイモムシ駆除。

液肥を施肥したら6時過ぎに帰路に。
帰宅後シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水やりとクッキー作り、藍建てチェック、


かき混ぜるとカラカラカラと音をさせ、アブクが湧いてきた。

品温27度。pH9から10。気温25度。
10時に買い物へ。
帰宅後、読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「小栗上野介」
1/3の午後、滝川が鳥羽街道から強行突破しようとした時、待ち構えていた薩長軍の大砲が火を噴いた。
↑薩長軍が先に手出しとるやんけ〜。
それで、何で慶喜追討令に?
滝川の馬は滝川を振り落とし鳥羽街道を暴走。
幕府歩兵大隊が戦闘の準備を怠り、ただ漫然と行軍を始めたところへ雨あられと砲火が浴びせられたのだから堪らない。
たちまち蜘蛛の子を散らすように潰走。
すわっと新撰組の抜刀隊と会津の槍隊が突進したがそれは無謀な突撃で全身を蜂の巣のように撃たれて惨死した。
シャノワンヌが大坂に着いたのは4日。
大坂城に向かうも将軍慶喜の姿は無し。
6日夜江戸に引き上げた。
忠順が大坂の異変を知ったのは7日。
三井の番頭三野村理左衛門がやって来て3日から戦が始まったと告げた。
念の為、大鳥を呼んだ。
「これは誤算です。恐らく会津が先陣を切ったと思われますがそれでは敵の思う壺だ。ばたばた殺られて居るでしょう。かねて申し上げた様に指揮官がおりません。大村や西郷に勝てるはずがない 」
小栗「しかし、海には榎本がいる」
大鳥「それは無理ですわ、戦いは陸ですから。榎本君はどうしようもない」
小栗「そのような呑気な事を言っていていいのか」
大鳥「だから私を大坂にと申し上げたはずです」
翌朝登城すると小笠原から「負けたらしい」と聞いた。
そして、慶喜は軍艦開陽丸で品川に着き海軍所で休んでいる、と。
小笠原「なにはともあれお迎えに参らねば」と幕閣は揃って品川へ。
そこに、将軍慶喜、会津公、桑名公、板倉公が顔色を土のようにして居た、と勝麟太郎の日記にある。
皆、口を閉ざしたまま。
たまりかねて忠順は「他の者共は如何相成ったのでこさるか」と聞いた。
が、誰も答えない。
城に帰ると城内は酔えるが如く狂するが如く論議が湧き上がっていた。
大広間、溜の間、雁の間、柳の間、上から下まで胡座をかいて座り込み討論。
「上方の賊軍がもう出発したそうだ」
「いやそうではない。箱根の山に拠って賊を皆殺しにするのだ」
「東照神君の御恩に報いるは今である」
「米国より軍船が回航されている。これを受け取り薩摩を攻撃せん」
皆、勝手気儘に悲憤慷慨の気炎を上げ議論を戦わせている。
13日の朝になってやっと大評議が始まった。
老中首座坂倉「こたびの戦は全て薩摩の奸臣の陰謀から出たもので断じて許す事は出来ない。この関東を守り再び京に攻め上る」と檄を飛ばし、青菜に塩だった慶喜も元気を回復したと見え得意の弁説で「薩摩の罪悪を糾弾する」と語気を強めた。
この夕刻から続々、将兵が東帰を始め、慶喜の逃亡によって幕府軍が瓦解した事が明らかに。
最早黙っている訳には行かない。
夜の評議で大鳥圭介が口火を切った。
「何ら作戦も無くただ闇雲に鳥羽伏見に兵を出した幕閣の責任は免れない。それがしは何度も戦略が大事である事を申し上げてきた。この大惨敗の責任を誰が取るのかっ」
と切り出すや、
「恥を知れっ」
「何故、戻られたのか」
大広間は直ちに論議が沸騰。
人々は口々に戦いを叫んだ。
将軍の権威はもう何処にもない。
忠順も立った。
「聞けば有栖川宮が大総督となり関東御征伐に決したとか。しかしその率いる所の兵員は僅かに三万に過ぎない。よって箱根の関門を開き江戸に奸賊を入れ、その上で箱根を閉じ、皆殺しにする作戦があるでは無いか。一方、軍艦で駿河湾を衝き、更に大坂を制圧すれば、関西の諸侯も皆幕府に付くこと必定でごさる。軍用金は私めが調達致す。私は幕府の為にのみ戦いを叫ぶのではない。列強はこぞってスキあらばと我が国を狙っている。我々は富国強兵を進め、世界に冠たる日本を造らねばならぬ。問題はそのやり方である。西周助や田辺太一らが上様に申し上げた通り、帝などという面倒なものを持ち出すのではなく、アメリカのような上下両院を設け、プレジデントのもと富国強兵を進めねばならない。これからの日本を造るのは薩長ではない。我々が中心にならねばならない。我々にその力はある。ここで敗れてはならない」
世界に互する日本の建設の為に帝の権威をひけらかせ、陰謀の限りを尽くす薩長は断固討たねばならない。
その時
「上様ご決断を」
「直ちに進軍のご命令を」
鋭い声が飛んだ。
慶喜は黙っている。
すかさず「卑怯者っ」罵声が満座を貫いた。
坂倉「誰だっ、そのような暴言は許さぬっ」
慶喜はよろよろと立ち上がり奥へ消えた。
翌日も評議が開催された。
外国奉行平山図書頭、開陽丸榎本釜次郎が順動丸、翔鶴丸、富士山丸に怪我人を満載し品川に入港。
平山と榎本も評議に加わった。
榎本の報告はこれが幕府かと耳を覆いたくなる内容だった。
「戦が始まったと言うので、私は六日の夕刻、大坂に上陸し、陸軍総裁の本陣に参り、助言をなさんとしたが、城内は寂寞として声がない。兵は散乱し防御の備えも無く、ただ徒に走り回っているのみであった。奥向の御用部屋を訪ねると、平山図書守、永井玄蕃頭、浅野美作守らがおいでになり上様は城には居られぬと申された。やむを得ぬので待たせておった水兵に城内の古金と刀剣を運ばせ海に戻ると、私の軍艦がない。艦長たる私を置き去りにして開陽丸は出てしまった。なんたることか。これが一軍の将師のなされることかっ。板倉公にお答えを頂きたい」
榎本の怒気が会場を圧した。
板倉の名をあげたが、慶喜を指していることは一目瞭然。
「志操堅固ならずして思慮しばしば変わる」
身近に仕えた会津藩は慶喜の余りの変節と臆病に愛想を尽かしていたが、榎本も遂に堪忍袋の緒が切れ、伝家の宝刀を抜いた。
慶喜が顔色を変え座を立とうとした。
「お待ちくだされ、上様、ご決断を」
たまりかねて忠順が歩み寄り慶喜の袖をとらえた。
慶喜「無礼であるぞっ」
慶喜が怒鳴り、尚も逃げようとするの見た榎本が
「上様は腰が抜け申したか」
と声高に叫んだ。
慶喜は真っ青な顔に成りまたも奥に去った。
これで評議は終了。
幕府の瓦解が決定的に。
翌15日、忠順は例刻通り登城。
すると、老中酒井雅楽頭忠惇が「上様が御役御免と申された」
忠順は慶喜の怒りに触れクビになった。
覚悟はしていたが、あまりの仕打ちに無念の思いが胸を衝いた。
酒井「板倉公と小笠原公が上様をお諫めしたが頑として聞かず、上野介に罷免を申し渡せの一点ばりであった。これまでのご苦労を思うと言葉もない」
酒井が慰めた。
↑同じく暴言を吐いた榎本は罷免されないんか?
忠順は一族郎党に罷免になった事を伝えた。
母「小栗家は三河以来の旗本です。取り乱してはなりませぬ」
16日の日記には来訪者の名前がズラリ。
建部聖岡、日下数馬、清心院、戸田悟水と本多隠居同道にて来る、織田和泉守、古賀筑後守方相越す、日下数馬、大鳥圭介、古屋佐久左衛門、由井図書、山田寅次郎。
夜になって顔を見せた織田和泉守は忠順と同役の勘定奉行。
忠順「横須賀製鉄所のこと、くれぐれも宜しくお願い申し上げる」
17日は日記にあるように目付の古賀筑後守を屋敷を訪ね、権田村への土着について相談。
屋敷に戻ると大鳥圭介と古屋佐久左衛門が来訪。
大鳥圭介「小栗さん、私はこのまま、はいそうですかと奴らの軍門に下るわけには参りません。幕府陸軍の意地があります。それだけでない。奴らのやり方が気に入らない。どうやら勝さんが小栗さんの後任として陸海軍を仕切るらしいが、とんでもない。私はやります。海軍の榎本君も同じです」
古屋「我々の総帥としてご出陣頂けないか」と忠順に決起を促した。
小栗「まことにもってありがたい話だが、もうその気は無い。私はこれ以上、戦乱を広げるべきてはないと考えている。戦火が広がれば日本が危うくなる、そう危惧している。しかし、このままおめおめと謀略に屈する事は、日本の為に良くない事も確かだ。しかし、上様にその気が無いというのであれば、もう私の出番は無い」
忠順が決起すればフランスも黙っていないだろう。
会津や庄内を纏めて東日本に一大軍事同盟を゙作ることは不可能ではない。
しかし、家康以来の旗本として、主家に反旗を翻す事は出来ない。
古風と言えるかも知れぬが小栗家としてそれは出来ない。
亡き父も母もそれを望まぬであろう。
忠順が身を引く事で、大鳥や榎本らの反乱もそう長くは続くまい。
それが日本の為かもしれない。
忠順の本心を何れ誰かがわかってくれるだろう。
その時、日本が忠順を必要とする筈だ。
↑日本は必要としたが、ロスチャイルドとその手先には邪魔だった。
18日からも千客万来。
庄内藩家老松平権十郎、軍艦頭の肥田浜五郎らが来た。
23日、慶喜は幕府の新執行部を発表。
若年寄 浅野美作守、川勝近江守、平山図書頭
陸軍総裁 勝麟太郎
陸軍副総裁 藤沢志摩守
海軍総裁 矢田堀鴻
海軍副総裁 榎本釜次郎
外国事務総裁 山口駿河守
会計総裁 大久保忠寛
忠順は勝の登用に釈然としないものを感じた。
25日、三井の三野村理左衛門が来訪。
「殿、将軍様は退穏と言うことでこれで幕府はもう終わりです。聞く所によると、将軍様はフランスに頼んであれこれと画策したそうですが、イギリスが反対してだめになったそうでございます。しかし、大鳥殿や榎本殿は腹の虫が治まらないようでこれからとうなるか分からぬと世間では言っております。江戸っ子は幕府の味方であるので一波乱はあるでございましょう」
理左衛門「大坂での話ですが西郷や大久保は将軍様の首を刎ねると申しておるそうで、その他に会津の殿様、小栗の殿様の首も取ると豪語している由にございます。一番怖いのは小栗の殿だと申しておるそうで、この際は日本を離れ、暫くはアメリカにでも行かれたほうがよいのではと思いまして。金はこちらで都合させて頂きます」
忠順「私は御役御免の身だ。上様に首を切られた男だ。薩長に敵対するわけでもない。そのような事あるはずもない」
理左衛門「いや、そうお考えになるのは早計でこざいます。確かな筋から漏れ聞いた話故、私がこうして」
小栗「馬鹿な。そのような事あるはずもない。皆にははっきり申したが戦などする気はない」
理左衛門「しかし、小栗の殿様は力があるので、担がれると煩い事になる。だから首を取れ、そう言っているわけで、油断するわけに参りません」
小栗「命など惜しくは無いが、私にはやらねばならぬことがある。権田村に土着し村の若者に学問を教えるのだ」
理左衛門「その事を分かる連中なら心配しないのですが、会津もこのまま黙っているわけは無いでしょう。そうなると。小栗の殿の事が一層気になるので御座いましょう。アメリカのこと小野友五郎ともよくご相談なさって下さい。坂倉様も小笠原様も身を隠されました。当然で御座いましょう」
小栗「余は逃げ隠れせぬ」
理左衛門はそれから5回も忠順の元を訪れアメリカ行きを勧めた。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

ホッケ、ワケギと蒟蒻のヌタ、筍と豚肉の炒め物、サラダ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
後片付けを済ませたら読書と調べ物をする事に。
歩数計は8143。
充実した一日だった。