arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1485日目と畑と小栗上野介㊱

2025/10/2木曜日

4時45分に起床し畑に行こうとしたら外は濃霧。

悪魔👿の霧アシストでわいの畑行きを阻まれた。

霧が晴れた6時45分に畑へ。

まーた、イモムシ多数。

しかも多種類。

駆除して液肥を施肥したら7時半に家路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水やり。

9時に図書館へ。

借りていた本を返し予約資料をゲット。

帰宅後、早速読書と調べ物。

 

昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介

 


小御所の御前会議で、松平春嶽山内容堂が「幼帝を擁して権力を私せんとしている」と岩倉具視を睨んだ。
が、岩倉が「ここは御前であるぞ」と居丈高に叫び、幕府の所領の返上と松平容保の追放を決めた。
これを聞いて江戸城の評議は荒れに荒れた。
小栗「このような事は事前に察知し得たことだ。薩摩の悪辣な行為を許す事は断じて出来ない。薩摩の小松など信用出来ぬとあれほど言ったではないか。先般、京都からのこのこ帰られた縫殿頭、兵部少輔殿どう責任を取られるのか」
小笠原「待て、上野介、我が幕府陸軍五千は京都にあるのだ。ここは都の情勢を正しく捉える事が肝要じゃ。して、上様は薩摩と一戦を交えるお覚悟であろうな」
目付の遠山に問うた。
遠山「陸軍奉行竹中丹後守様が断固討つべしと坂倉公に迫られたが、上様は京で兵を起こせば帝を悩ませ奉ると大坂に退く所存にございます」
すると大広間に罵声が乱れ飛んだ。
「それでは卑怯者のそしりは免れぬ」
「全国に出陣の触れを出せっ」
小栗「相手が武力で御所を占領したのだ。即、応戦し、まず薩摩屋敷に砲撃を加えて然るべきではないか」
「何ということだ。これでは幕府の名が廃れる。上様ともあろうお方が」むせび泣く声も漏れた。
小笠原「上様がどう言われようと、ここは私の一存にて軍事顧問団と増援の兵を京に送る。木村摂津守、すぐ軍船の手配をいたせ。上野介、軍資金に不足なきよう調達せよ」
小笠原が老中の威厳を取り戻し凛とした声で場を鎮めた。

↑武士だから戦で決着付けないとな。

切り捨て御免の特権だけ享受するとか。

しかも給料の俸禄は農民からだし。

だけど、戦で一般ピープルに迷惑掛けたらアカンからの。

そう思うと関ヶ原というだだっ広い野っぱらで関ヶ原の戦いをした家康はあっぱれ。

一応、一般民に迷惑掛けてないよな?

流石神君家康公。

 

 

都と江戸では距離がある。
お互いに意志の疎通は無い。
慶喜は一戦も交えること無く大坂城に逃げた。
パークスもロッシュもこの時大坂に。
京都て政変近しとあって駆け付けた。
↑企画したからな。

高みの見物よ。

 

パークスの配下、アーネスト・サトウは京都から、大坂に下る慶喜の一行を目撃。
それは物悲しげな隊列だった。
洋式訓練部隊に続いて背中の半分まで垂れた長い黒髪や白髪の鬘の付いた陣笠を被った遊撃隊、その後ろに慶喜松平容保、坂倉伊賀守、大河内正資の幕閣がいた。
武器は長槍或いは短槍、スペンサー銃、スイス銃、旧式銃、両刀と様々。
薩長軍に比べると見劣りがした。
薩長寄りのサトウでさえ、何故戦わないのかと信じられぬ思いで見つめる退却。
サトウの記録によると「眼前の慶喜は痩せ、つかれて、声も哀愁を帯びていた。この五月には気位も高く、態度も立派だったのに」

慶喜ブレーンがね、フリーメイソンおるし。

平岡円四郎や原市之進暗殺されたし。


忠順の妻、道子は妊娠5カ月に。
↑このあと、身重のまま、群馬から新潟、福島へと山々を越え逃避行するんやで。
薩長がクーデーターなんか起こすから。

 

妻の父建部聖岡もよく顔を出す。
道子は忠順にええじゃないかについて聞いた。

ええじゃないかは町民達が阿波踊りのように叫びわ町を練り歩く。男は女装し女は男装。派手な着物を着て昼も夜も踊り狂っている。
↑日本の文化ではありましぇーん!

 

 

初め尾張名古屋で起こり、今では全国津々浦々に広がっている。
江戸の市中警備に当たる庄内藩家老松平権十郎が「どうも後ろで薩長が糸を引いておる。騒ぎを起こすための計略に違いごさらぬ」と忠順に耳打ちした事がある。

薩長は世の中を騒がせるのがだーいすき♥

ちなみに、坂本龍馬暗殺団はええじゃないか集団に紛れて逃げおおせた。


この頃、妻に権田村への移住について打ち明けた。

ええじゃないかの不安が的中。
薩摩の江戸藩邸に無類の徒が集まり、夜な夜な江戸の町を荒らし回っているという噂が流れた。
庄内藩が内偵を始めたその矢先、12/23早朝、江戸城二の丸が炎上。
小笠原「薩摩の浪人どもの仕業じゃ!」
続いて江戸市中警備の庄内藩邸にも砲弾が撃ち込まれた。
小笠原「滝川播磨守、直ちに大坂に向かい即刻戦火を開くよう上様に申し伝えるべし」
大目付滝川具挙「上野介どの、留守を頼む。シャノワンヌもすぐ上京させてくれ」
滝川は勘定奉行並として忠順の配下に居る小野友五郎を゙連れ品川から長鯨丸に乗り込んだ。
小栗「小野君、うかつに開戦してはならぬ。シャノワンヌの到着を待って十分に協議致せ。早まってはならぬぞ」

↑小栗はシャノワンヌの到着を待て、と言ったが確かシャノワンヌはフランス本国からの命令で中立する為に江戸に待機。


これに合わせ庄内藩は報復に。
砲兵大尉ブリュー二の指導のもと25日早朝、薩摩藩邸を包囲、大砲で砲撃を加え、これを壊滅させた。
戦争が始まったというに陸軍総裁松平縫殿頭が体調不良に。
代わって陸軍奉行浅野美作守が総指揮を執る事になった為、準備が遅れ、フランス軍事顧問団のシャノワンヌ、メッスロー、フォルタン、ビツッフィエが順動丸で横浜を出たのは明けて慶応四年正月二日に。
御所を奪われてから既に20日を過ぎていた。
滝川が討薩の上表を持ち、幕府歩兵大隊、会津、桑名、高松、四国松山らの各藩兵約一万五千が伏見と鳥羽から京を目指すことに。
シャノワンヌらはまだ海の上。
出発して間もなく、兵士達は慶喜の姿が無いことに気付いた。
朝になって「余は風邪である」と逃げた。
坂倉「上様、それでは士気が上りませぬ」
慶喜「この熱ではとても出陣出来ぬ」
↑やっぱ、傍系の水戸一橋家出身は覚悟が無いのか。

 

対する薩長は薩摩三千、長州千の四千余に過ぎない。
しかし、決死の覚悟でこの時を待っていた。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

鯖味噌漬け焼き、サツマイモ焼き、サラダ、チーズピカタ、ゴーヤソーセージ炒め、卵焼き、チーズ竹輪、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。

 

歩数計は7352。

充実した一日だった。