2025/9/29月曜日
4時45分に起床し5時過ぎに畑へ。
今日も今日とてフェンネルに付いたイモムシ駆除。

そして、色んな所に得体のしれない緑色の液体を撒かれているので、作物応援の液肥を施肥。
6時に帰路に。
帰宅後シャワーと洗濯。
8時45分に買い物へ。
9時40分に帰宅後、食材の収納をし終えたら読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介」
忠順はフランスとの借款をもう一度軌道に乗せるべく新たな手だてを考えた。
フランスに戻っているカションとの連携を強めるため瀬兵衛を渡仏させる事である。
そして、ロッシュは会う度に「借款が駄目でも私は日本の為に全力を尽くす。注文した兵器も必ず日本に送らせる。横須賀製鉄所も、陸軍の指導も従前通りだ」と語った。
「オグリ、私の目の黒いうちは日本の為に力を惜しまない。本国政府は日本の事情を知らずにモンブランのような男に騙されているのだ。私も頑張る」と言った。
忠順は6、7、8の3カ月間、陸軍の編成と財源の確保に心血を注いでいる。
陸軍奉行並の山口駿河守、駒井甲斐守、歩兵奉行の戸田肥後守、歩兵奉行並大鳥圭介、滝川充太郎らにシャノワンヌ、ブリューネが加わり、陸軍の定員、階級、訓練規定、規則、報酬、予算などの策定に当たった。
定員は歩兵六連隊十二大隊、9600人。
騎兵二大隊264人。
砲兵六座1360人。
直接経費は年間132万7500 両
大砲、小銃、弾丸の製造費23万600両、火薬製造費25万50両、合わせて総計202万8900両を計上。
歩兵の内訳は
第一連隊1000人。
第四連隊1000人。
第五連隊800人。
第六連隊600人。
第七連隊800人。
第八連隊800人。
第十一連隊800人。
この他に伝習第一、第二大隊、御料兵があり、藤沢に統括させた。
更にフランスに発注した大量の兵器やフランス軍事顧問団の報酬がある。
忠順は紙幣発行に踏み切った。
担当したのは江戸の豪商三井である。
三井は伊勢松坂の三井高利が創業者で江戸に出て呉服店「越後屋」を開き、その後、金融業に転じた。
大坂の鴻池と並ぶ天下の豪商に成長。
幕府に年間百万両近い御用金を納め、今回も多額の負担を背負った。
が、その代わりに忠順は三井に市中貸し出し業務を゙やらせた。
↑それ、アカンやつや!
それはロスチャイルドが日本でやりたいやつ。
だから、小栗上野介は殺された。
岩倉具視に小栗暗殺を依頼したか。
三井の番頭三野村利左衛門か若い頃小栗の屋敷に中間として住み込んでいた関係で三井は忠順を支えた。
市中貸し出しとは商品担保を設定し十万両を限度に商人に貸し出すもので、これによって江戸、横浜の商人は運転資金が潤沢になり、御用金も集まった。
また、江戸横浜通用札、日本最初の兌換紙幣も発行させた。
これによって三井の地位も揺るぎないものに。
三野村は忠順の屋敷に頻繁に足を運び、忠順の財政計画に助言を与え、幕府財政の立て直しと如何にして急場を凌ぐかに貢献。
三井は明治になって三井銀行、三井物産に発展。
↑小栗は暗殺されたけど三井は残ったのな。
ちなみに三野は小栗の死後、妻子を援助している。
10月のある日、母から妻の妊娠を知らされた。
妻の道子は結婚18年で初めて身ごもった。
その最中に大政奉還の政変が起こった。
江戸では大政奉還はまだまだ先の話とたかをくくっていた。
↑外交官のアーネスト・サトウが予告したからな。
奴らは予言してから事を起こす事になっている。
早いとこやらないと、幕府がフランスの援助で軍備増強されるからの。
幕府が勝ったら、まーた、工作し直しになるからの。
で、フランスが一人勝ちして儲けるからの。
10/3,土佐藩山内容堂から老中首座坂倉伊賀守に正式に大政奉還の建白書が提出された。
朝廷のもとに列藩から成る上院と、庶民からなる下院を設け、慶喜は上院の議長に就き、国を上げての総力体制で国難に当たるというもの。
10日朝には坂倉が越前藩主松平春嶽に会い所信を聞いた。
春嶽は「潮時でござろう。何の心配は要らぬ。余と容堂とで、将軍の座はお守り致す」
↑松平春嶽「余と容堂とで、将軍の座はお守り致す」噓付き。
と笑みを浮かべた。
↑松平春嶽は嘘付いたな。
慶喜「そう言ってくれたか」
坂倉の報告に至極満悦。
12日には在京の有志を二条城に集め、政権返上こそ国家救済の道、と述べた。
会津藩、桑名藩は青天の霹靂と受け止め会議は紛糾。
翌13日、慶喜は在京五十余藩の重臣を二条城に集め、政権返上の上奏案を示した。
西周助も末席に。
↑西は日本人フリーメイソン第一号。
留学から帰国後慶喜の側近として暗躍したか。
薩摩藩家老小松帯刀が将軍の前に座し「将軍様のご英断により神州は全盛の時を迎え、天下をして泰山ごとく安からしめることでございましょう」
↑よう言うわ。こっから薩摩藩は東北で人民殺すんやで。
それを聞いて慶喜が頷いているのを見て会津藩首脳は愕然。
薩摩は長州、土佐と倒幕の軍事同盟が結成されたという情報が乱れ飛んでいた。
↑噂では無く、全くその通り。
江戸の幕閣の上京もまだ。
これは早計だと危惧した。
が、慶喜は翌14日に参内し政権奉還を提出してしまった。
↑確か、裏で薩摩藩が偽勅を゙用意してたからじゃ無かったか?
それを阻止する為に大政奉還を奏上し、その勅の意味を無くした、みたいな。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
この知らせが入るや江戸は大騒乱に陥った。
忠順「なぜいま急に大政奉還でござるか。奉還する際は兵を上京させ、十分に固めてからなさるべきではなかったか」
小笠原壱岐守に直言。
小笠原「余にも何の相談もない」
忠順の日記によると
「十月十七日、朝五ッ(午前8時)過ぎ浅野美作守殿へ相越し、それより登城、退出より松平周防守殿へ御用向きにて暮れ六ッ(午後6時)帰宅」
「十月十八日、朝五ッ駒井甲斐守へ相越し、それより登城、薄暮退出」
忠順は17日に、若年寄浅野美作守、老中松平周防守、18日には養子又一の実父、陸軍奉行並駒井甲斐守と個別に会い、強く兵の上京を具申。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫にはつけ麺を用意。
午後も読書と調べ物。
17時に、夫が昼寝している隙を見て、藍建てチェック。
その前に昨日の夜の測定記録。
攪拌前。

品温27度。pH10台。気温26度。

攪拌後、いつものようにカラカラカラと音がしてアブクが発生。

そして、今日の記録。

品温27度。pH10台。気温26台。
攪拌後のカラカラカラは「染めて〜」て言っているような気がしたので布巾を染めてみた。
うっすら青くなった。
引き続き、夕食作り。

ぶりのサワークリーム焼き、人参サラダ、ゴーヤとナスとしじみの中華スープ、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース、長男のお弁当のおかず。
19時に食べる事に。
歩数計は8529。
充実した一日だった。