arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1477日目と畑と藍建て㉖と小栗上野介㉘

2025/9/24水曜日

4時に起床し5時過ぎに畑へ。

今日も液肥を゙撒いてから6時に帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングと藍建てチェック。

品温26度。pH11台。気温24度。

久しぶりにTシャツを試し染め。

染めた直後はすくもがTシャツ一面に模様のように散りばめられる。

乾いたら着ようと思っているので、一生懸命濯いだ。

うっすら青くなった。

大満足。

買い物に行ってから読書と調べ物。

 

昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介

忠順はこの頃、小野友五郎に密命を与えた。
アメリカ合衆国海軍との接触である。
南北戦争が終わり軍艦放出の可能性が強い事に着目。
小野に軍艦調達を命じた。
この年、慶応二年九月二十九日には城中でロシアに向かう小出大和守の壮行式が。
副使は石川駿河守利政、以下外国奉行所、箱館奉行所の面々で通詞は名村五八郎と箕作秋坪

家来、従僕も入れ総勢18名。
一行は10/12, アンペリアル汽船会社の蒸気船デュプレイ号でパリ経由でロシアに向かっている。
九月も東奔西走。
二十日に横浜で大火。
町の3分の2と外国人居留地の5分の1が焼けた。
その横浜にイギリスへの留学生が集結。
忠順が進めるもう一つの外交政策で10/25にイギリス郵船二ポール号で渡英。
元はと言えば福沢諭吉の発案。
福沢が実弟として送り込んだ福沢英之助はのちに弟子の中津藩士和田慎次郎と分かる。

福沢諭吉はその程度の事は平気でする。

忠順は留学生を励ます為、向山隼人正と横浜へ。
引率する取締役は幕府歩兵頭並、川路太郎23歳。
外国奉行川路聖謨の孫。
↑息子は20代前半で急死させられたんよ。
川路聖謨に活躍されると外国勢は困るからの。

優秀だから。
まずは子供を狙う。
田沼意次の時も、島津斉彬の時もそう。
徳川家慶の時も。
奴らの常套手段。

 

 

その後、イギリス領事館にパークスを訪ねた。
パークスは高輪と横浜を行ったり来たりであるが横浜の方が多い。
↑そら、横浜の方が作戦会議する為に都合がええわな。

仲間のフリーメイソンうじゃうじゃおるし、幕府の目も緩いたろうし。

 

国際関係には表と裏がある、
今日のパークスは表の顔。
あの香港の惨状を忘れてはならない。
鎖に繋がれイギリス兵にムチ打たれるシナ人。
↑これ、ホントなの?
日本人が来るから態とそう見せつけたとかじゃなく?
奴ら得意じゃん。
映画みたいに見せつけけるの。
嘘の映像撮ったり。
ウクライナでもヤラセ映像撮影してたし。

↑これ、マジでやってたらイギリス人て相当なワルやで。

 

11月に瀬兵衛が漸く外国奉行に復帰。
暮れに慶喜が孝明帝から将軍宣下を受け15代将軍に。
↑孝明帝も暮れに亡くなる。
で、大政奉還からの王政復古クーデター事件。
年が明けたら鳥羽・伏見の戦い
小栗上野介忠順の死へのカウントダウン始まりますわ。

 

忠順は暮れに陸軍奉行並も拝命。
陸海軍を統率する立場に。

在京の老中首座坂倉伊賀守から思い切ってやれ、と指示されており、忠順は全力で幕政改革に取り組んだ。
忠順は慶応三年元旦から慶応四年四月二日まで一年四カ月間日記を残している。

慶応四年閏四月六日に東山道軍に斬殺されるから、死の直前まで日記を付けていた。

正月二日は歩兵奉行並の藤沢志摩守、横須賀製鉄所奉行の一色摂津守、監察の古賀謹一郎らと外食。
三日は大目付滝川播磨守具挙邸で祝賀の宴。
滝川は慶喜の側近の一人。
外国奉行神奈川奉行京都町奉行を務め、長州征伐の参謀でもある。
忠順は瀬兵衛や小野友五郎を連れて出かけている。

小野の所に前アメリカ公使ロバート・ブルインから就艦可能な軍艦があるとの知らせが。

正月四日午前11時に登城すると昨年暮れに孝明帝が崩御されたと報告があり、殿中の松飾りが取り払われた。
滝川「毒殺の噂がある。折角都が落ち着いたというのに、酷いことをするもんだ」
都と江戸との連絡は二日もすればつく。
しかし、孝明帝の死は数日隠されこの日の朝、江戸城中に届いた。
孝明帝は慶喜と容保に信頼を寄せ慶喜に将軍職を叙した直後の死。
薩長派公卿が毒を盛ったとしても不思議は無い。
孝明帝が軽い疱瘡に罹ったのは暮れの12/10。
経過は良く12/19には丘疹期に。
水疱期、膿疱期と順調に回復。
ところが24日の夜から容態急変。
御九穴より御脱血。

25日夜崩御
36歳の若さであった。
老中松平周防守は「奴らは帝の事を玉と呼んでおった。孝明帝は会津を信頼されていた。倒幕には目の上のコブだ。そこで玉を奪う策に出たに違いない。何という連中だ」

1/11(笑)徳川昭徳一行がフランスへ向けて出発。
その見送りに忠順は向かい、京都から帰って来たばかりの小笠原や瀬兵衛も来ていた。
フランス側からはロッシュとフランス東洋艦隊提督のローズ、世話係りとして同行する長崎フランス領事、レオン・デュリーと通訳のシーボルトが顔を見せた。
デュリーてあの、仕事をしない給料泥棒の?

フランス軍事顧問団は1/13に横浜に到着。
小野友五郎は1/23にアメリカへ出発。

新春を期して幕閣の大異動があった。
老中首座坂倉伊賀守は幕閣を統括。
坂倉を補佐する小笠原壱岐守は外国事務担当、老中格稲葉兵部少輔を海軍総裁、老中格松平縫殿頭を陸軍総裁とし、陸軍奉行並浅野美作守、同竹中丹後守、外国奉行平山図書頭、塚原但馬守らが若年寄並に昇格。
忠順は今回も昇格無し。
が、事実上の大蔵大臣として財務を担当。更に陸海軍奉行並を兼ねあらゆる政務に参画。
瀬兵衛に「肩書などくそくらえだ。老中首座のつもりでやれ」と言われた。
この頃の忠順を福地源一郎が次のように記している。
「小栗が財政外交の要地に立ちし頃は幕府既に衰亡に瀕して、大勢まさに傾ける際なれば、十百の小栗ありといえども、如何とも為すべからざる時勢なりけり。然れども小栗は不可能の言葉を吐いたることなく、国亡び身倒るるまでは公事に鞅掌するこの真の武士なれと言い幕末数年間の命脈を繋ぎ得たるは、小栗が与りて力あるところなり」
忠順は驚異的な粘りで幕府を支えるのである。

↑小栗のおかげで内乱(戊辰戦争)中も事は進んだ。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌汁と残り物でお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

麻婆茄子、ご飯、味噌汁、長男のお弁当のおかず、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。

後片付けを゙済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は9355。

充実した一日だった。