2025/9/23火曜日
3時に起床し読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介」
竹中は長州に歯が立たない事を認めた。
↑竹中重固は軍師として著名な竹中半兵衛の子孫だよな。
鳥羽伏見での失態ばかり取り上げられるが、この長州征討で流石な分析しとるやないか!
翌日、忠順は板倉、稲葉、竹中丹後守らと都に上り、二条城で一橋慶喜に会った。
慶喜「上野介、戦いを早く終えて、当面陸海軍の整備を進めねばなるまい。仏国士官の雇入れはその後如何相成っておるか」
小栗「栗本瀬兵衛とカションの間で詰めておりますが、暮れ前にシャノワンヌ大尉以下十五名がパリを発つ事になっております」
慶喜「頼もしいな。どのような者達か」
小栗「シャノワンヌ大尉以下、砲兵、騎兵、の士官及び下士官にございます。訓練はシャノワンヌが来てからになりますが、横浜に三兵伝習調練所を設けます。そして14歳から19歳までの者を入学せしめ士官とする。三兵士官学校の設立も合わせて行う所存にございます」
慶喜「士官が養成され、訓練が始まれば、長州に負けるような事はあるまいな。丹後守っ」と檄が飛び竹中は伏した。
慶喜「上野介、フランスのクレーが参ってそちとの間で借款の件、交渉中と聞くが、余に詳しく聞かせてくれ。勝はぶつぶつ言っておったがあしらっておいた」
小栗「ならば申し上げます。借款の総額は600万ドル、うち100万ドルは銅で決済し残り500万ドルはフランスのソシエテ・ゼネルール銀行とイギリスのオリエンタル・バンクの出資にございます」
慶喜「つまりフランスとイギリスに出させるということか」
小栗「その通りにございます。フランス国はわが国に銀行を持っておらず、横浜に店のあるオリエンタル・バンクを加えぬと取引が出来ませぬ」
慶喜「請賄の事、余には分からぬ。そちに任せるが、製鉄所の工事は順調か」
小栗「その事は益頭から申し上げます」
益頭「それではそれがしから。フランス人技師ヴェルニーの監督のもと、基礎の工事を進めておりますれば、全く問題なく進行致しております」
慶喜「竹内大和守は元気か」
益頭「朝早くから夜遅くまで現場におられ、ヴェルニーの相談を受けております」
慶喜「それは良い。上野介、製鉄所完成はいつであったか」
小栗「四年後には」
↑四年後、小栗も幕府もおりませんわ(泣)
慶喜「その時、横浜で軍艦が造れるのか」
小栗「榎本らが今オランダで軍艦建造を学んでおります。製鉄所と造船所が出来れば、日本国の軍艦が追々造れる事と存じます」
慶喜「そうか。勝はこのことでもつべこべ申しておった。横浜で軍艦など造れぬとな。たわけ奴」
坂倉「上様、勝の言うことなど宛にはなりませぬ。この際は小栗に軍艦の事も委ねる所存ゆえ、お認め下さるよう願います」
慶喜「政治の事は坂倉に任せておる。海軍の事はそちの言う通り小栗で良い。しかし、勘定奉行も続けてもらわねばならぬぞ」
坂倉「御意。上野介の下は木村摂津守が良かろう。上野介とも馬が合うし。海軍部内に信望がある。栗本もそろそろ戻さねばなるまい」
↑勝が小栗や木村摂津守の大海軍構想を潰さなければ、今頃、既に大海軍出来てただろうに。
慶喜はここでパリ万国博覧会に弟の昭徳を派遣する事に関して皆の同意を求めた。
そして、慶喜は松平肥後守容保にも、随行員として家来を出すよう要請した。
慶応二年の8/11(?),忠順に海軍奉行並兼務の辞令が。
瀬兵衛から「何故、奉行にしないのだ!並ではまだ格式に拘っている」
海軍奉行は大名と決まっているので仕方ない。
その海軍奉行には黒羽藩主の大関肥後守増裕に辞令が。
小野友五郎も「私はアメリカ海軍と手を組み、国産軍艦を造る」と意欲を漲らせた。
海軍は事実上、忠順を頂点に木村摂津守、小野友五郎ら小栗派で占められ本格的な改革に乗り出す事に。
一橋慶喜、坂倉伊賀守、小栗忠順による富国強兵路線が幕府の本流に。
↑これでずっとやれば良かったんよ。
当面の大きい問題は徳川昭徳の渡仏。
水戸斉昭の18男で慶喜の異母弟。
14歳ながら、京都本圀寺に水戸藩士300余名を率いて駐屯中である。
これに合わせフランス全権公使に外国奉行向山隼人正が任命された。
小笠原と共にクーデターを計画した人物である。
瀬兵衛「先ず人選でこざるが仏語伝習所より保科俊太郎と山内文次郎を推薦致す。保科は歩兵、山内は砲兵に詳しく、仏語もカションの折り紙付きでござる」
向山「それはお任せ致す。私からは外国奉行方の田辺太一、日比野清作、杉浦愛蔵、生島孫太郎を連れて参りたい」
忠順「万国博に出席したあと二年乃至三年は勉強してもらわねばならぬ。しかし、何分にも財政難故、少数に絞りたい。後は水戸家から何人を出すかだが、全体で二十人前後にしたい」
数日後、水戸から小姓頭取菊池平八郎ら七人と、一橋家から渋沢篤太夫、会津藩から横山主税、海老名郡次、老中小笠原公の唐津藩から尾崎俊蔵が加わり、随行は総勢二十三名に。
細部は向山と瀬兵衛がロッシュやカションと詰め、来春早々フランス郵船で渡仏に決定した。
万国博への準備は柴田剛中と江戸商人瑞穂屋の手で進められた。
忠順は柴田と2度、3度、瑞穂屋に足を運び 点検。
ヴェルニーの意見も聞き、漆器、陶器、金工品、和紙、刀剣、鎧兜、日本画から昆虫に至るまで189箱、金額にして4万7千両を全国から集めた。
瑞穂屋清水卯三郎「他に私どもがほぼ同じ数ほど出させて頂きます」と一つ一つ説明。
目を引いたのは武者人形。
明珍正宗の見事なもので馬の毛を埋め込んだ木馬に甲冑武者が乗り、甲冑を付け槍を持った従者が立っている。
小栗「これはいかほどで売るのか」
卯三郎「はい。800両ほどになるかと存じます」
小栗「そうか。売れるかもしれぬぞ」
卯三郎「ありがとうございます。出しものは他にもございます。会場で茶屋を開きます。芸者を3人程連れて参り、茶を点てさせます」
忠順は卯三郎の商才に舌を巻いた。
今日はここまで。
5時15分に畑へ。

液肥を施肥したら6時に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら読書と調べ物。
11時半に昨夜以来の食事。
納豆ご飯と味噌汁と残り物でお腹を満たした。
13時に次男とテニス。
次男の希望でミニラリーとサーブ練習をしていると夫が途中から参加。
自分より夫の方がサーブは上手なのでタッチ交代。
13時45分に帰宅後、出麹。

午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

さんまと大根おろし、サラダ、おつまみのチーズとサラミとナッツ、茄子のべったら漬、残り物の煮物、味噌汁、カレー、長男のお弁当用の卵焼き、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
食後、藍建てチェックをしたかったが夫がリビングに居る。
夫は藍建ての匂いが嫌いでいつも「くせーくせー」と訴えてくる。
畑に持って行く、米の研ぎ汁とか納豆培養液とかもそう。
「くせーくせー」煩い。
あんな、くせーくせー言ってたら畑なんて出来ないよ。
昔はうんこおしっこの肥やし使ってたんだから。
江戸時代は立派な商品だったんよ。
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/131723/
歩数計は8131。
充実した一日だった。