arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1475日目と小栗上野介㉖と畑と藍建て㉕

2025/9/22月曜日

3時45分に起床し読書と調べ物。

昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介

 

長州と幕府との戦争と連動するかのようにカラフトでロシアが仕掛けて来た。
2月末、箱館奉行所調役葛山勇輔がクシュンナイに到着し配下の者共8名と北方のコモシララオロ漁場を視察に出掛けた際、突然ロシア兵50〜60名に取り囲まれた。
多勢に無勢、全員が監禁された。
↑そりゃー8対50だもの。

 

葛山らは2カ月後に釈放。
↑何もしてない日本の役人を2カ月も拘禁とか。
乱暴やな。
それとも、殺されなかった事に感謝すべきか。

 

知らせを受けた箱館奉行所の小出大和守秀実がロシア領事に掛け合い葛山らは2カ月後に釈放。
ロッシュからも「オグリ、フランス外務省はロシア軍がカラフトに集結を始めていると言っている。ロシアが蝦夷を奪おうとしていることは疑う余地が無い。陸海軍の整備に一日の遅れも許されないぞ」と注意を受けた。
今ロシアに攻め込まれたら防ぎようがない。
日露和親条約は何処いった?
破約になっとるのか?

 

忠順は外交交渉によりロシアの進攻を防ごうと、小出大和守が主張する遣露使節団の派遣に賛成。
在京の老中坂倉伊賀守に働きかけた。
坂倉もこれを認め、秋に小出大和守が向かうことに。
こんな事もあろうかと幕府はロシアに留学生を送り出していた。

箱館奉行所支配同心でロシア通詞の志賀浦太郎の進言を採用し、留学生は江戸の学問開成所の生徒及び箱館奉行の関係者七人である。
彼等は目下ペテルブルクで語学研修中。
「いずれロシア国の大学校に留学させしかるべく学問を学ばせたい」とロシア国務大臣宛に書簡も出していた。
忠順はこの時、一計を案じ、会津藩から派遣している。
早速、会津藩公用方の外島機兵衛に持ちかけた。
小栗「外島さん、幕府は長州との戦いで負け続けている。これまで口を酸っぱくして言ったのに兵備が旧態依然では必死の長州に負けるのも当然だ。私は会津藩の装備を大変心配している。頭を切り替えるには外国を見る事だ。小出大和守がロシアに行くが会津からも人を出して欲しい。会津の将来を担う男を」
外島は山川大蔵を推薦。
後日、山川大蔵は忠順を屋敷に訪ねた。
まだ二十歳を過ぎたばかり。
理知的な風貌で忠順は一目で気に入った。
山川大蔵は若輩にも拘らず戊辰戦争の際、会津軍の軍事総督を務め、一ヶ月に及ぶ籠城戦を指揮。
↑この時、既に忠順は斬殺されておる(泣)

 

山川隊は既に官軍が蔓延っている若松城下を地元のお祭りの扮装をして官軍が呆気に取られて見つめる中祭囃子と共に堂々と入城したのは凄いエピソードよ。

彼の遣露体験は忠順の狙い通り会津藩に大きな影響を与え、軍制改革のきっかけになった。
また、戊辰戦争後の混乱の中から弟健次郎と妹捨松をアメリカに留学させている。
健次郎は後に東大総長、捨松は薩摩の大山巌のもとに嫁ぎ、鹿鳴館の華として活躍する。
これも山川の渡航があっての事だった。
慶応二年七月二十二日、忠順は驚くべき知らせを大坂から受け取った。

将軍家茂の死である。

四月ころから胸痛を訴え、一時は快方に。
しかし、六月に入って再発。
遂に危篤に陥り逝去。
松平周防守の依頼で忠順は上京し坂倉公の考えを聞くことに。
↑電話もメールも無い時代は大変や。

 

この夜、瀬兵衛が訪ねてきた。
彼は、この辺りで長州と休戦し、ロシアを警戒しないと、と忠告した。
9月、忠順は長鯨丸に乗船し外国奉行塚原但馬守と横須賀製鉄所の益頭駿次郎、用人の塚本真彦等と神戸へ到着。
急ぎ大坂城へ向かった。
老中坂倉伊賀守は忠順に会うや「勝に騙された」とぽそり。
坂倉「軍事を全て指揮させてくれれば必ず薩長とのこと、纏めてみせると言って出掛けたが、勝の野郎っ、何一つ成し得なかった。長州は暴れ放題だ。挙句の果てに、幕府が自ら政権を持して天下に号令せんは不可と激しく噛みついておった。あいつは幕臣に非ず」
稲葉美濃守「その勝を春嶽奴が買っておる。雄藩連合が成った暁には春嶽こそ、君主であると勝が春嶽に囁いたらしい」
話題はパークスの薩摩入りに。
薩摩藩礼砲を鳴らし、島津公自ら軍艦に出向き、城下を案内。
↑薩英戦争でイギリスに城下を焼かれたのにね。

 

忠順はパークスに随行した横浜のイギリス商人についても論じた。
その商人は『横浜新報』に「日本の大名は皆、独自の領国を持っている。これら大名と直接交渉しなければ貿易を日本全国に広げる事は出来ませぬ。今回の鹿児島訪問はそれに先鞭をつけた」と書いてあったと知らせた。
更に「最早津々浦々に藩がありそれぞれ独立している現行の制度では世界に通用致しません」と捕捉した。
坂倉「やはり郡県制度か」
この夜、忠順は陸軍奉行竹中重固から長州藩の軍備について聞き、陸軍の兵制改革の急務を実感。
竹中「奴らは強い。何人かひっ捕らえて尋問したが、軍政は村田蔵六が取り仕切り、医者で蘭学の心得がある。緒方洪庵適塾で塾頭を務めていたそうだ」
大村益次郎の事か?

長州の人達って何でころころ名前変えるん?
親から貰った大切な名前で無いの?

 

更に、兵は士族に限らず農商も居るのが注目された。
精強部隊は千城隊、第四大隊、第五大隊、奇兵隊、回天隊など二千人。
隊員50人毎に総管、軍監、書記、斥候、伍長などが居て統率を取っている。
竹中「こちらは老兵もいてばらばらだ。奴らの装備は大半が元込め銃だ。槍隊、弓隊では勝負にならぬ」

↑現場の竹中重固がこんなにも訴えていたのに、鳥羽伏見の戦いでも大して変わらなかったという。

今日はここまで。

 

5時過ぎに畑へ。

籾殻を漉き込み、水遣りをしてから6時半に家路に。

帰宅後、洗濯とベランダガーデニングの水遣り。

合間に米麹チェック。

今回も発酵機無し。

品温は43度をヒット。

麹蓋2つに分けて入れた。

この上に包むのに使っていたパイレン布とさらし布、毛布を掛けて保温。

9時に買い物へ。

10時半に帰宅後、再び読書と調べ物。

11時半に昨夜以来の食事の用意。

納豆ご飯と味噌汁と残り物でお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

17時半から夕食作り。

ブリカマと大根おろし、里芋と海老の煮物、ご飯、味噌汁、サラダ、ローストナッツ、チーズ竹輪、茄子のべったら漬、鶏の味醂粕漬け、じゃがいも、ソーセージと海老の紫蘇巻、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら、藍建てチェック。

気温27度、pH11台、気温24度。

数日前から、かき混ぜるとカラカラカラと音がするようになった。

しかも、撹拌後、泡がプクプク湧いてくる。

近日中に試し染めしてみることに。

 

歩数計は11112。

充実した一日だった。