2025/9/19金曜日
5時に起床。
昨夜豪雨だったので畑はお休み。
洗濯を回している間にベランダガーデニングの水やりとシャワー。
8時45分に買い物へ。
10時半に帰宅後、11時から読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介」
横浜から帰って数日後、忠順の屋敷を゙田辺太一が訪れた。
田辺は昨年横浜鎖港談判使節に随行し渡仏。
しかし、鎖港など出来る訳がなく、一行は孝明帝に直接鎖港の非を訴えるべしと上京しようとした為、御役御免、蟄居を命ぜられた。
3ヶ月後、その罪を解かれたが無役のままである。
↑孝明帝には「攘夷!攘夷!」言ってもらわないと困る連中がいぱーい。
田辺「最近良く横浜に行かれるとか」
忠順「あそこはイギリスの租界になってしまった。どうかね、最近のイギリスは」
田辺「オールコックが帰国するという噂があります。どうも長州を叩いたのが本国の意に沿わなかったとか」
忠順「グラバーが横槍を入れたな。日本を乗っ取る気だ。となると、次に来る男は薩長びいきになる」
田辺「実はイギリスの書記官アーネスト・サトウが大胆不敵に論じております。横浜で発行している英字新聞ジャパンタイムスに散発的に書いているのですが、大君は日本の統治者に非ず、江戸の君主にすぎないとしております。サトウに言わせれば、日本の統治者はミカドである。今後条約は大君ではなく、ミカドと結ばなければ有効でない、そういっております」
忠順「そこまではっきり言っているのか。影武者が居るな。目星はついているのか」
田辺「薩摩の松本弘安が渡英した際、イギリスの下院議員オリファントに同様の趣旨を申し述べております」
忠順「以前書記官として日本に居た男だな。幕府が日本を統治するガーバメント(政府)に脱皮できるのか、薩長が朝廷を担いでそれを成し遂げるのか、二つに一つたな」
アーネスト・サトウは後に『英国策論』を纏め薩長同盟、倒幕の理論的支柱になる。
↑『英国策論』は或る意味予告。
奴らは予告してから事を起こす掟がある。
事態はそこまで来ていた。
イギリスの良いようにさせてはならぬ。
忠順は唇を噛んだ。
田辺が帰り際に言い残した池田長発の事も気になった。
池田は幕府切っての攘夷論者で「異人斬るべし」と物騒な事を平然と言っていた。
しかし、フランスに行ってすっかり開国論者になってしまった為、帰国するや狂人扱い。
あれこれあるが、忠順は以前にも増して横須賀製鉄所に足を運んだ。
↑池田長発。
時代が時代なら日本の為に大活躍した逸材やないか………。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%99%BA
慶応元年五月、忠順は三度目の勘定奉行勝手方に復職(笑)
どうのこうの言っても忠順しか人は居ないのだ。
老中首座格水野和泉守は「今度こそそちに全てを一任する」と言った。
忠順「それでは」と評議で国費の精算書を説明するにあたり、「いまこれを朗読しても閣下方にはお分かりにならないでごさろう。上野がこうしておるからには、絶対に為にならぬことは致しません。そう思って頂きたい」
と広言し数字を読み上げた。
あとで水野が「もっともであるがちと言い方があるのではないか」とぼやいたが「ございません」と撥ねつけた。
長州を封じ込め、薩摩の領地を削り、統一国家を形成する。
その時、日本の統治者は今の幕府ではない。
朝廷でもない。
忠順は新しい道を模索し、そこに向かって真っしぐらに進むべしと水野に説いた。
小栗忠順、この時39歳。
↑早く知りたい!
小栗忠順が考えた新しい道。
続きを読むの楽しみ!
養子の又一は数えで18歳。
この春横浜の弁天町に設立した横浜仏語伝習所に入学。
この学校は忠順とカションと瀬兵衛の3人で設立。
修学年限は1年半。全寮制。
校長はカション。14〜20歳までの若者57人を入校させた。
教師はカションの他にフランス公使館から4, 5人が交代で当たっている。
3ヶ月おきにロッシュが立ち会って試験をする。
瀬兵衛の養子貞次郎も入学。
生徒は旗本が中心だったがいずれ商人や百姓の子も入学させようかと思っている。
その頃、長州と薩摩が手を握り上海との交易に乗り出し、薩摩が16人もの留学生をイギリスに送り出した。
一方、京都では朝敵長州が多くの浪人を潜り込ませ会津藩と死闘。
幕府もたまりかね、第二次長州征伐を発した。
忠順の片腕小野友五郎も将軍のお供を命ぜられ大坂へ。
↑てことは、家茂の死亡が近い、と。
明けて慶応元年(1865)閏五月、柴田剛中は特命理事官として渡仏。
一行は柴田の他に外国奉行支配組頭水品楽太郎、同調査役富田達三、通弁福地源一郎ら十人。
7/6, マルセイヌ到着。
柴田は出迎えのヴェルニーに初対面して驚愕。
か細い体に近視で分厚い眼鏡を掛けた27, 8歳の書生っぽ。
しかし、仕事が始まると、判断が早く、誠意もある。
滞在は少なくとも数カ月になる。
宿舎のグランドホテルは高いので貸家を見つけなさいと言った。
柴田はヴェルニーを見直した。
日本が一大造船所を造るため大量の機械を買い付ける、と言うので商人が毎日やって来る。
技師や職人に応募したいと言う人も引きもきらずで手紙も山のように来る。
「今回の事は一切の権限を柴田理事官が持っている。私にはない」
ヴェルニーは押しかける商人を゙厳しく裁き、主だった者は必ず柴田に会わせ、手紙も見せた。
裏取引など微塵もない。
おかげで医官、機械課長、建設課長、会計課長、製図課長ら管理職と鋼鉄、鑪工、鋳造、製罐、模型、水替など合わせて20人を実力本位で選ぶ事が出来た。
総責任者はヴェルニーで年俸一万ドル。
医官は五千ドル。
管理職は月給二百ドルから四百ドル。
職工は100ドル前後。
薩摩と兎角の噂があるモンブランもよく顔を出した。
「モンブラン来り。自衒の語、切に極る、遂に不まんの辞気あり」
※自衒・・・じげん 意味:自分の学問や能力を自慢する。自分を見せびらかす。
※不忿・・・憤懣やる方ない
モンブランは適当な事ばかり言い、愚かな嘘つきで、憤りに耐えない。
柴田はこう日記に記している。
慶応元年八月の暑い昼下がり瀬兵衛が勘定奉行所に顔を出しこう言った。
「パークスが今年中に下関の賠償金を払えと幕府に要求してくるらしい」
↑その賠償金で薩長に武器を買ってあげたいからね。
おちおちしていると日本がフランスと親密になり、イギリスの利権がフランスに奪われてしまう〜。
パークスがオールコックに代わって来日してまだ三月足らず。
この男のやり方は最初から幕府に挑戦的。 赴任する際、真っ直ぐ横浜に入らず長崎に直行。
長州の桂小五郎や井上聞多、伊藤俊輔らに会い、イギリスの支援を伝えていた。
桂はのちの木戸孝允、井上は井上馨、伊藤は伊藤博文。
翌九月、仏、蘭、米に働きかけ四国共同で下関問題に当たる事を決めイギリス軍艦5隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦1隻の軍艦9隻から成る連合艦隊で兵庫沖に。
↑まーた、黒船9隻引き連れて示威行動。
刃渡りちらつかせてやって来るヤクザと一緒。
幕府は取り急ぎ瀬兵衛を話し合いに大坂に派遣。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

オカワカメのお浸し、鮭、茄子の古漬け、ご飯、もろみ汁、さつま揚げ、チーズ竹輪、ローストナッツ、昼の残りのマカロニストロガノフ、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
今日、藍建てチェックしていなかったので実施。

品温29度。気温26度。
かき混ぜたらプクプク言った。

歩数計は6885。
充実した一日だった。