arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1470日目と畑と小栗上野介⑲と藍建て⑳

2025/9/17 水曜日

4時に起床し5時に畑へ。

イモムシに出迎えられた。

水遣りを済ませ6時に帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

8時45分に買い物へ。

10時に帰宅後、食材を収納。

やる事やったら読書と調べ物。

昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介

 


そんな折、将軍の御船「翔鶴丸」が将軍を乗せて大坂に向かい、江戸に帰る途中、蒸気が動かなくなる事故が起きた。
老中首座格の水野から依頼され忠順は瀬兵衛に相談。
すると、瀬兵衛はカションが横浜に戻って来たから彼に頼みフランスに船を修理させ、それを土台に造船所へと行くか、と言い横浜へ。
2ヶ月後、戻って来た瀬兵衛は、カションを通してフランス公使ロッシュに話をつけ、横浜に在泊中のフランス軍艦「セミラミス号」の蒸気方士官ドウ・ロールに請負わせた、と言う。
そこへ、てんやわんやの大騒ぎが発生。
会津と薩摩が同盟を結び長州を都から追放する禁門の変を起こし、長州はこともあろうに御所に発砲して萩に逃げ帰った。
↑ほらな。

長州は天皇の住む御所に発砲したんよ。

賊は長州やろ。

 

やがて、朝廷から長州追討令が下り、総督尾張大納言、副総督松平越前守のもと、10月下旬に出兵命令の出た中国、四国、九州の21藩全軍が大坂に集結。
11/18に長州総攻撃に入る手筈を整えた。
結局、長州は朝敵になった責任を取り、益田右衛門介国司信濃福原越後の三家老が切腹

幕府に恭順の意を表し休戦に。
これで二月程道草を食ったが、忠順を責任者に勘定方吟味役小野友五郎、目付山口駿河守、海軍奉行木下謹吾、陸軍御用取扱浅野美作守を委員とする造船所検討会議を発足させた。

忠順の神田屋敷も再び千客万来
日高や益頭を始め、仙台の玉虫、会津の広沢ら引きも切らぬ賑わい。
人が集まれば色々な話が入る。
秋に入って忠順ら検討会議の面々は横浜に出掛けた。
造船所を考えるためである。
横浜の海に浮かぶ翔鶴丸に乗り込み修理箇所を点検した。
そして、瀬兵衛の居る横浜税関へ。
彼の案内でフランス公使館へ出向きロッシュやカションと会った。

更に、ジョーレス提督にも。

ロッシュはフランスのグルノーブルに生まれ、北アフリカのフランス植民地で30余年の外交官生活を送ったベテラン外交官。

この時、数え56歳。
フランス海軍一等蒸気士官ジンソライは上海から戻るや、すぐ鍋島侯が寄贈した修理道具を点検。
その結果、この機械は極めて小型で若干の修理には使えるが船を造り出すには殆ど役に立たない事が分かった。
ロッシュは造船の専門家ヴェルニーをシナから連れて来るそうだ。
忠順は小野友五郎にもその旨を連絡。
そして、大海軍構想を勝麟太郎に拒否され軍艦奉行を辞職、開成所頭取として長静な日々を過ごしている木村摂津守にも小野から報告が。

↑ほらー!

木村摂津守の折角の大海軍構想を勝が潰した。

この時、勝が反対しなければ、ゴーサインが出てれば、幕府は存続したかもしれない。

 


木村の元には肥田浜五郎、福沢諭吉ら渡米組が集まっている。
いすれ木村を軍艦奉行に復職させたい、と忠順は考えていた。
忠順は早速、ジンソライとドロートルの協力を得て取り合えす横浜に小さな製鉄所を建設。

浦賀に仮設のドッグを設置。

そこに鍋島公献上の修理機械を収納。
忠順は頻繁にロッシュに会った。
ジョーレス提督も本気だった。

「オグリ、横須賀を見よう」と9月、10月に掛けて数回横浜から横須賀に掛けて視察。
フランスとの共同研究は順調に進んだ。
ところが、いつもの事だが、評議の度に反対や異論が出る。
「ロッシュなる男、本当に信用てきるのか。造船所に熱心なのは業者から利ざやが入る為と申す者も居る。外交官など信用出来ぬ」
瀬兵衛「しからば申し上げるが、オランダ、アメリカ、イギリスから幕府も諸藩もあれこれ品物を買っている。船も買ったがすぐ故障する。しかし、フランスの品物はそうしたことはない」と助け船。
最後に忠順が「日本のためでござる」と声高に叫びくだらぬ話は退けた。
後日瀬兵衛が回顧。
「その内部の曲折は筆舌に尽くし難いものがあった。其の一、二を挙げれば海軍部下のものは政府の趣旨の何たるかを理解せず、他の論者は無用不急なりと嗷々し、大計に暗い儒者、武人どもは口を極めて罵倒した」
幸い老中首座格水野和泉守、老中阿部豊後守、諏訪因幡守の三人は、常に忠順を支持。
↑この3名はDSに非ず?

 

孤立無援では無い。
ジョーレス提督を中心に蒸気士官のジンソライ、ドロートルの間で第一次の叩き台が出来上がった。
忠順の西洋館に緊迫した空気が。
会津藩の広沢富次郎が来て長州藩高杉晋作が再び反旗を翻し、藩論を尊攘、倒幕に戻し始めたと言う。

↑出たよ。

上海だか香港だかに数カ月行って、中国人がイギリス人に足蹴にされてるのを見て、開国に考えを変えたのに、幕府を倒したい為にそれを隠してジョーイ。


内偵に依ると、桂小五郎伊藤俊輔井上聞多松下村塾の門下生を中心に倒幕の機運が持ち上がっている。
土佐の坂本龍馬の動きも活発。
長崎のグラバー邸では薩長の者共がゲベル銃を買い漁っている。
↑幕府がイギリスに払った賠償金数百万ドルを元手に買い漁っとる。
幕府が薩長にゲベル銃を買ってあげてるのと同じ。
ふざけんなコラ。


この危機を瀬兵衛に相談。
すると瀬兵衛は「幕府陸海軍の軍制改革を急がねばならぬな」
「京都は幕兵で押さえねばならん。最早ああだこうだと言ってる場合ではない。大砲も鉄砲もどんどん買うっ」
軍艦セミラミス号搭載のと同じ種類の銅製施条カノン砲十門と施条山岳榴弾砲4、5門をフランスに発注。
造船所の設計も急がせ、地中海にあるフランスのツーロン造船所よりはやや小さめの規模とし、製鉄所一か所、ドック2か所、造船場3か所、武器庫などを4カ年計画で建設し、費用は年60万ドル、総計二百四十万ドルとする案で纏めた。名称は造船所でなく製鉄所とする事にした。
忠順は元治元年の11/10の評議にこれをかけて工事をフランスに発注。

フランス本国との折衝の為、柴田剛中を派遣する事にした。
暮れの12/9に城中で水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守、小栗忠順とロッシュの間で費用の支払いについての協議が持たれた。
ロッシュは「生糸の直輸入と諸侯からの納金」を提案。
幕府は多量の生糸、蚕卵紙をフランスに送る事で意見の一致を見た。
忠順は日仏貿易会社の設立構想について述べ、代表をパリに駐在させフランスの商社との間で軍艦、武器購入に当たらせることに。
後日、フランスの会社ソシエテ・ジェネラールの代表者クーレーが来日。
幕府とフランスの経済提携が進み借款の成立を見ることになる。
元治二年(1865)正月、造船所の技術責任者に要請したフランス人技師ヴェルニーが来日。
これに合わせ忠順は軍艦奉行も兼ねる事に。
横須賀より神戸の海軍操練所が先だと主張していた勝を罷免。
勝は江戸氷川の邸に閉居。
「横須賀など出来っこないよ」と嘯いている。

↑確か勝は大海軍なんて300年後じゃないと出来ない!と閣議で反対した。

やっとの事で横須賀造船所建設がスタートしたのは1865年。

木村摂津守が大海軍構想を閣議で提案したのは1862年

この3年のロスはデカい。

勝は何でこんなに邪魔するんだ?

 

https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%96%9C%E6%AF%85

このブログによると勝は500年後とほざいていたらしい。

しかーし、40年後の1905年の日露戦争日本海軍は世界最強のロシア・バルチック艦隊に勝利したのであった。
今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

納豆ご飯と味噌汁と残り物でお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

17時に藍建てチェック。

品温30度。pH10台。気温28度。

今見たらリトマス紙の色が緑色に見える。

後でもう一度pHチェックして場合によっては灰汁を足す事に。

 

引き続き夕食作り。

サンマと大根おろし、タケノコとピーマンの中華炒め、オクラととろろ納豆、味噌汁、ナスの古漬け、長男のお弁当のおかずの卵焼き、ごぼう巻き、人参、ウォッカ梅酒ロック。

良く呑み良く食べた。

お皿は長男が洗ってくれた。

有り難く、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は7798。

充実した一日だった。