arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1469日目と畑と藍建て⑲と小栗上野介⑳

2025/9/16火曜日

5時に起床し5時半に畑へ。

緑色の顕著な箇所に持参した液肥を施肥。

帰り掛けにフェネルに止まるイモムシを発見。

全部で5匹を駆除。

6時半に帰宅後シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水やりと藍ちゃんチェック。

ピントずれの嫌がらせ。

ちなみに品温30度。pH10台。気温26度。

今日は曇り空だけれども、試し染めをしてみる事に。

 

曇り過ぎて暗くて色も分かりづらい。

夕方、取り込むと緑色だった。

まだ藍ちゃんの用意は出来ていなかったらしい。

それでも、有り難く緑色に染まったティシャツを後日着てみる事に。

ヨーグルトの材料をヨーグルトメーカーにセットしたら朝の家事は終了。

やる事やったら読書と調べ物。

 

昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介

 

「栗本殿、我が国の商人はあこぎすぎます」と薮内が言った。
蝦夷地は本来アイヌのもの。
和人が来住したのは鎌倉時代
戦乱の兵火を逃れてきた者や犯罪者、或いは出稼ぎの漁師などが住み着き、松前氏の始祖武田信広松前周辺に勢力を拡げ、蝦夷島主の地位を得た。
当時、クリル(千島)は幕府直轄で統治。
ロシアの進攻に゙対抗。
島中の17ヶ所に漁場を開き、島に住むアイヌに衣服、食料、漁具を与え、シャナを中心に開発を進めた。
享和三年(1803)の報告だと、この年、マスしめ粕一万石、同油二千五百挺、塩マス千石、塩ベニマス二百石、赤魚しめ粕五百石、同油百五十挺、塩ジャケ五、六千石、計約一万八千石を生産。
このうちから七千五百石を内地に送り、代金二万二千両を得、一万両の利益を上げている。
水上「これは大変な数字です。このまま順調に行っていれば、もっとましな島になっていたものを」
幕府が直営から民営に切り替えたのは文化七年(1810)
運上金三千両で高田屋嘉兵衛に請負わせた。
が、あっという間にアイヌの人口は1100人から300人に減少。
原因は、場所請負人のやり方が酷すぎた。
商人が米や味噌、酒、煙草、衣料品、鍋、釜、糸、針などを船に積んでアイヌの番屋に出かける。
物々交換の為である。
問題は、そのやり方。
交換比率は米一俵に鰊6束(十連を一束)
熬海鼠五百、鮭五束(20本を一束)、鱒15,16束、アザラシ皮3枚などと決まっているが、数え方を誤魔化したり、升や樽を上げ底にしたり。
↑日本人じゃねーな。

とゆーか、江戸幕府がその身分制度を士・農・工・商の順にした意味がわかった。

 

数の数え方は一を「始めに」し、二から一と始まり、最後の数は「終わり」を付けて数えた。
このやり方だと二つ儲かる。
↑これも日本人じゃねーな。
詐欺師や。

 

内地の五分の一、十分の一という安い労賃でこき使い、どんどん人口を減らした。
エトロフより奥はロシアの支配地。
シュムシュ(占守)パラムシル(幌延)オンネコタン(温弥古丹)ハリムコタン、シャシコタン。
その地名は明らかにアイヌ語
↑コタンは確か集落とか村の意味。

 

ここクリル(千島)にロシアが乗り込んで来たのは正徳元年(1711(笑))の頃で、鉄砲を持った商人が渡来。
シュチチュを占領。
間もなくバロムシルを乗っ取った。
彼らはシベリアを征服した貪欲なコザックで成人男子一人に付きアザラシの皮一枚の貢税を課し、拒めば銃で撃ち殺した。
↑ヒェ~(驚く)恐ロシア!

 

江戸では幕府に追い風が。
元治元年(1864)七月の英、仏、蘭、米四国連合艦隊による下関攻撃。
蝦夷地から戻った瀬兵衛は毎日のように忠順の家に顔を出した。
瀬兵衛は帰ってすぐ昌平黌頭取に就任。

嘗て退学させられた学校である。
面白くない、とぼやいたが、六月には目付に抜擢。

安芸守に任ぜられた。
勤務地は横浜の税関。
瀬兵衛は若年寄立花出雲守、外国奉行竹本淡路守らと連日、四国代表に会っていた。
箱館でカションにフランス語を習い、フランス外交筋からお墨付きを貰った事が大きい。
英公使オールコック「列国が武力を行使して条約によって得た権利を防衛するのは正当な事である。しかも長州は我々に砲撃を加えた」
竹本「幕府としてもやむを得ないと認める」
8/5, 連合艦隊の攻撃で長州はあっさり敗北。
この時、高杉晋作が家老宍戸備前の養子宍戸刑馬と名乗り降伏交渉に臨んだ。
高杉晋作は「全ての責任は幕府にある。」と幕府に責任転嫁。
賠償金は幕府が払えとぬかし、イギリスがそれを後押し。
↑全ては幕府の金蔵を空っぽにする為の茶番劇よ。


玉虫三太夫の予想通りの展開に。

賠償金は三百万ドルとふっかけてきた。
幕府財政の1年半分。
↑空っぽどころか、大赤字やー。


瀬兵衛「老中どもがお前に骨を折って貰いたいと言っている」
忠順「御免被る。老中達が責任を取るべき。長州にも払わせろ」

瀬兵衛「英露は同じ穴の狢」
↑御名答。

 

忠順は8月に勘定奉行勝手方に復職。
意のままにやらせてもらうと言う条件を付けた。
半年ぶりに黒書院の評議に出ると、坂倉と小笠原が慶喜のやり方に反発して辞めたので力があるのは水野一人だった。
老中首座格水野和泉守忠精。
出羽山形藩主で経験もあり外国事情にも詳しいが保守性は拭いきれない。
牧野備前守忠恭は越後長岡藩主で奏者番寺社奉行京都所司代を歴任したが特段の実績は無い。
稲葉美濃守正邦は淀藩主。
大坂と京都を結ぶ重要な位置にある。
↑この人の留守中に鳥羽伏見の戦いが勃発。
幕府軍は敗走しここに逃げ込もうとしたが突如、城門を閉じられ拒否されたんよ。
逃げ込んだ土方歳三もびっくりの裏切りの淀藩。

 

阿部豊後守正外は白河藩主。

神奈川奉行の経験があるが病弱。
諏訪因幡守忠誠は諏訪藩主。
水戸天狗党と戦うなど骨があるが大舞台での実績は無い。
老中格松前伊豆守崇広は松前藩主。

ロシアには詳しいが幕閣としての実績は無い。

若年寄には酒井飛騨守忠毗、本多能登守忠紀、土岐山城守頼之らが居た。
歯に衣を着せずに率直に言う人も居たが責任は取りそうもない。
都合が悪くなると病気と称して国元に帰ってしまうのがオチ。
要は大名でなければ老中や若年寄になれないというやりかたが時代に合わない。
しかし、それを打破するのは難しい。

何せ二百数十年の慣習がある。

それでも何とか持っているのは勘定奉行を頂点とする官僚が優れている為。
小栗忠順然り、川路聖謨然り、岩瀬忠震然り。

 

役人達は忠順の復帰を歓迎。
小野友五郎もその一人。
忠順も後押しし、自前で軍艦を造ろうとしたが、忠順失脚の間に勝麟太郎から勘定方に飛ばされた。
↑フルベッキ勝キターーー!

暗躍しとる。

 

現在は「海陸御備並軍制掛」
取調御用兼勘定吟味役
小野「上野介どの、どうしても造船所を造らねばなりません」
佐賀の鍋島閑叟が造船用機械を幕府に献上。
それを収容する施設が無く横浜に放置されている。
小野「勝がやたらと船を買い込んだが、長崎以外に修理する所がございません。船はすぐ故障する。造船所が無ければ修理も点検も出来ません。先ずはこの機械を納める施設から始めては如何で御座いましょうか」
↑勝は明治DS武器商人に儲けさせとるなー。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫には蕎麦を調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

17時から夕食作り。

 

豚の生姜焼き、ゴーヤ炒め、サラダ、ローストナッツ、さつま揚げ、長男のお弁当のおかずの卵焼き、長芋、茄子、蓮根、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。

これにご飯と味噌汁を追加。

19時過ぎに食べる事に。

 

歩数計は4464。

充実した一日だった。