2025/9/15月曜日
5時に起床し5時35分に畑へ。
今日も緑の液体が目立つ箇所に米の研ぎ汁を撒いた。

イモムシは居なかった。
6時過ぎに帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水やりと納豆作り。
大豆を蒸し、納豆菌を混ぜ混ぜしたらヨーグルトメーカーへ。
9時に図書館へ。
本を返却し予約した資料を借りて帰宅。
早速、読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「小栗上野介」
この他、道中の心得として「菅笠はよろしからず。
陣笠の形のもので、渋扇張り(柿渋をひいたもの)がよし。
風雪はなはだしきためなり。
藪蚊多きため、すねは肌着に油紙をあて、その上に脚半を充てる、
蚊帳を用意すべし。
梅干し用意あるべし。
麦を持参し麦飯を食するとよし」などと書かれてあった。
出航は五月早々。
カションが忠順がクーデターを企てたが失敗し、またも罷免されたと伝えて来た。
カラフトで一緒だった水上は千島にも詳しいので同行する。
今年は冷害で気温が上がらず、3日連続雨の後は暴風雨。
そして冷たい山瀬が吹いている。
今回の千島行きは最新式の健順丸を使用。奉行所がアメリカから購入した二本マストの洋式帆船。
奉行所は箱館丸、亀田丸、豊治丸など何隻かの船を持っている。
役人はこれらの船で蝦夷地を巡視。
亀田丸、豊治丸は箱館で建造した自慢の洋型船。
亀田丸はアムール河を北上、ニコライエフスクまで航海している。
蛯子末次郎、桂右衛門、尾崎貞八ら北の海を知り尽くした測量方や船乗りがいて「恐らく日本有数の腕前だ」と瀬兵衛は自負。
5/23に箱館を出航。
船には呉服物、木綿、肴、香物、菓子などを山のように搭載。
ネムロ、クナシリ、エトロフで苦労している役人達への支給品だ。
巡視には水上の他にクシュナイで一緒だった薮内於菟太郎、山梨佐輔と同心、足軽を3名程同道。
カラフト程切羽詰まった問題は無いが、今後のロシア戦略のためにしっかり巡視せねば。
遥かに下北半島を眺めながら大海に出た。
4日目に強風によりネムロに退避。
翌朝出港し昼にはクナシリのフルカップに到着。
クナシリ詰め目付の近藤源太と勘定役の高橋五郎右衛門が出迎えた。
エトロフは仙台藩の持ち場。
二つの島に出張陣屋を置き、それぞれに40人程を常駐させている。
1年交代で2月末、奥州路の残雪を踏んで下北半島まで歩き、津軽海峡を越えて海辺を襟裳岬からネムロまで歩き(!!)やって来る。
↑襟裳岬からネムロて!
調べたら318kmやで!
北海道の3月て余裕で雪あって寒いし!
仙台の陣屋は海岸より一丁ほど離れた高台にある。
周囲に六尺程の土手を築き、その上に柵を築いている。
備砲は四貫目大砲一丁、二貫目、一貫目四丁、他に木砲があった。
火縄銃が十丁程立てかけてある。
瀬兵衛の巡視と言うことで砲はピカピカに磨かれ、藩兵は槍を手に入口を固め、調役高橋治太夫が日頃の訓練ぶりを説明。
しかし、この備えではロシアの軍艦と撃ちあうのは難しい。
宿は会所の長屋。
酒と肴で歓迎の宴が開かれた。
鯨の味噌󠄀漬けが出たがこれは珍味であった。
「今年も二人、命を落としまして」
高橋が顔をしかめた。
水腫病はカラフトにもあるが千島の方が酷いようだ。
脚が赤紫に腫れ歩くことが出来なくなり歯茎から血が出て歯が抜ける。
口の中が潰れ食事を取れなくなる。
アイヌの事も話題に。
会所にはネムロのアイヌ、ションコとツキノエが居た。
二人共由緒ある家柄の出である。
ションコの先代はネムロのオツテナ(酋長)である。
嘗てションコの家はノカマップの一帯を仕切っていた。
年は五十代、朝夕、カムリ(神)に祈りを捧げるエカシ(長老)である。
ツキノエはクナシリのオツテナの一族。
この名前は結構多い。
先代はしばしば和人と戦った勇猛の士。
誇り高い一族である。
ツキノエは若い二十代の若者。
瀬兵衛が千島に来た目的はアイヌの暮らしを見聞し今後千島をどう統治して行くかを考える為である。
クナシリは千島列島の最南端にあり、全長四十里程。
面積はほぼ琉球に匹敵。
知床からは四里強。
エトロフでは南部藩があっという間に打ち負かされたが、クナシリではロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴロヴニンを引っ捕らえている。
↑マジ!?凄いね!
世界周航の途中、薪水を求めてクナシリに上陸したゴロヴニンを松前奉行所の役人が捕えた。
ゴロヴニンは2年間日本に幽閉されその記録を纏め日記を書いている。
フルカマップからケラムイ岬までションコやツキノエの案内で探索に。
15里程ある。
入江に船を止め、上陸して再乗船。
この辺りのアイヌは一段と貧しい。
家長はアザラシ、犬の皮を付けているが他は鳥の羽根で編んだ着衣。
子供はこの寒さで裸同然。
家と言っても穴居同様。
中に鍋が一つあるだけ。
漁具もヤスしか無く、川を上る鮭、鱒を突いて捕える。
耕地も無く、黒百合の根を掘ったり、ウド、セリなどを摘んで食べている。
ここからエトロフにも渡った。
広漠としたフレベツ湾に船が入港。
波止場には仙台藩の役人が。
仙台藩はフレベツに出張陣屋を置いた。
周囲に土塁を築き、大手冠木門をくぐると、御役所、徒士長屋、足軽長屋、医師長屋、雑穀庫、火薬庫、牢屋があり、東南に金毘羅権現社、八幡社まであった。
全体の広さは西南に36間、東南に30間、南北に36間。
台場は五ヶ所で陣屋下の海岸線に一貫目、五百目、三百目、百目、五十目、三十目の大筒が配備されていたが、残念ながら戦力的には飾りに近い。
気になっていたエトロフ戦争の犠牲者戸田又太夫の墓は台場に近い海辺にあった。
翌日から島の探索に。
この島は絶景が至る所に。
滝がどおーんと海に流れ落ちている。
山は大森林地帯。
そこをオジロワシや肩白ワシが悠々と飛び、原始の森を無数の川が蛇行。
川には背中にコブを持つセッパリマスやベニサケの夥しい群れがイテラその上を真っ黒になるほどのカラスが舞っている。
一際目立つチリップ(散布山)は夏でも中腹から上は真っ白い雪。
島を半周し対岸のヒトカップ(単冠湾)にも行った。
深い樹海を背景に広漠とした湾があり、何十頭ものアザラシが泳ぎ回っていた。
このヒトカップが後日、日米開戦の集結地になっている。
↑幕府は蝦夷地で暴れるロシア軍対策も講じていた。
松前藩や奥州の津軽、南部、秋田、会津、仙台、庄内、藩などに命じてやらせた。
武備も拙いし、水腫病もあったし、多大な負担を課せられ人的損害もあった。
自分も本を読んで初めて知った。
歴史の授業でも、取り上げて欲しいものだ。
12時に昨夜以来の食事。
ヤロー共には焼きそばを調理。
自分は納豆ご飯と味噌汁てお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
16時半から夕食作り。

牛すじストロガノフ、サラダ、胡桃小女子、がんじき、ご飯、長男のお弁当のおかずの卵焼き、茄子、蓮根、エリンギ、南瓜、ごぼう肉巻き、長芋肉巻き、ウォッカ梅酒ロック+赤紫蘇ジュース。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
その間、自分は今日の藍建てチェック。

品温30度。
pH10台。
気温28度。
もう、試し染めしたいのだが、天気がイマイチ。
明日やれたらやる事に。
歩数計は7550。
充実した1日だった。