2025/9/8月曜日
4時半に起床し5時半に畑へ。

畑からの帰りがけに撮影しようとすると花が綺麗に映らないよう太陽の光がセピア色に。
太陽の光は誰が操作してるのかね。
6時45分に帰宅後、シャワーと洗濯。
そして、藍建てチェック。

本日の藍ちゃん、品温は31度。
pH11台。気温26度。
2週間経ったら試し染めしてみるか。
9時半に買い物へ。
帰宅後、食材を収納したら読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介」
五月八日、小笠原は品川沖から蟠竜丸に乗り横浜へ。
↑蟠竜丸て、松岡磐吉が艦長だったやつやー。
翌朝、生麦事件の賠償金四十四万ドル(約十二万ポンド)をイギリス公使館に運び入れた。
↑死亡したリチャードソンの遺族にはこのうち、幾ら支払われたのか、誰か知っている人居たら発信してね。
イギリス公使ニール「クーデターが成功する事を我々も願う」
帝の背後で糸を引く薩摩、長州の追放が目的である。
上京は五月下旬とし、騎兵を中心に約千の兵を運ぶ。
使用する汽船はフランスでは無く英国籍の商船二隻。
雇船料は一ヶ月二万一千ドル。
フランスはフランス国旗を掲げた軍艦を出動させるなど上京の大綱が決まった。
しかし、5/9に事態は急変。
慶喜が都から戻って開いた評議の席で起こった。
慶喜「家茂公は孝明帝と攘夷決行を約束された。兵を上らせる事はならぬ」
小笠原「幕府は滅びますぞ」
慶喜「余ではない。家茂公が勅命を受けられた」
小笠原「とても承服いたしかねる」
目付の池田修理長発「攘夷の声は津々浦々に漲っておりまする。ここは断固攘夷決行と致し、長崎、箱館、横浜の三港を閉じるべきでこさる」
小笠原「何を血迷っておるのだ」
池田「帝の仰せにこざる」
と池田長発は譲らない。
この男、岡山池田家の支族。
天保九年生まれの27歳。
飛び抜けた秀才として知られるが外国事情に疎い。
慶喜は池田の弁護を良いことに町奉行井上信濃守と目付の杉浦正一郎の二人を鎖港談判委員に命じ、「皆の者、分かったな」と引き上げてしまった。
井上と杉浦は「とてもそのような役はお引き受け出来申さぬ」と一橋邸に出向き慶喜に辞退を伝えた。
↑井上信濃守は川路聖謨の実弟でハリスとの日米通商条約の交渉役を務め、相当苦労して締結したんやで。
外国事情は勿論、条約の中身も知ってる人間が今更攘夷とか鎖港とかの手続き出来るわけが無い!
杉浦正一郎も1862年に外国掛けやっとる。
そのあと、長崎奉行も。
外国事情に明るい。
https://bakushindoko.jp/%E3%81%95%E8%A1%8C/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E5%8B%9D%E9%9D%99/
数日後、慶喜は、混乱の責任を取り将軍後見職を辞すると小笠原に伝え自邸に引きこもった。
小笠原はこれを慶喜からの良きに計らえと言う意味だと解釈。
挙兵の準備を勧めた。
忠順のもとにド・クルベールから会いたいと連絡が。
クルベール「オグリ、慶喜公は攘夷決行と申したそうだが気は確かか。鎖港となれば我が海軍も黙ってはいない。幸い小笠原が都に兵を出すと言っておるので心配はしていない。しかし神の子である帝と戦わないで、悪意を持つその臣と戦うと言っているのは解せない。帝は開国に反対している。その為に江戸は砲撃の危機に晒されている。にもかかわらず、帝とは戦わないとはどういう意味か」
小栗「それはなんとも」
確かにド・クルベールの言うことは筋が通っている。
が、帝は日本の歴史に深く根ざした神秘的な存在。
それを否定する事は忠順にも出来ない。
↑誰か帝に軍艦と大砲見せてやってくれ。
帝にジョーイ、ジョーイと攘夷を煽ってる奴らも、軍艦と大砲見学に行けば良い。
ちなみに、上記のガチの尊王攘夷派の池田長発は渡仏して帰国後、俄然、開国を主張。
主張し過ぎて左遷されたで。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫には蕎麦を調理。
納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を゙満たした。
午後も読書と調べ物。
16時半から夕食作り。

ご飯、味噌汁、そうだ鰹の塩たたき、サワークリームサラダ、青椒肉絲、長男のお弁当のおかず、卵焼き、ウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿を洗ったら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は11681。
充実した1日だった。