2025/9/6土曜日
3時半に覚醒し読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介」
都では天誅の嵐が吹き荒れていた。
陽が落ちると人の姿は無い。
まるで戦国の世のよう。
文久三年正月二十二日夜、「ぎゃーっ」という悲鳴を残して大坂の儒者池内大学が斬り殺され、翌朝、斬奸状と共に難波橋の欄干に生首が晒された。
大学は反幕派の学者だったが安政の大獄で逮捕されると、幕府から賄賂を受け同志の消息を白状したという噂が流れていた。
土佐の山内容堂に招かれ酒肴を賜った帰りに刺客におそわれた。
数日後、幕府派の公卿千種有文の家令、賀川肇が斬殺された。
首は白木の台に乗せられ一橋慶喜の宿舎の東本願寺へ持ち込まれ、切り取った腕は千種有文と岩倉具視の屋敷に投げ込まれた。
暗殺、放火、強盗、強姦、晒し首、京の都に血なまぐさい暗雲が立ち込めた。
↑暗殺、放火、強盗、強姦、晒し首、奴らは世情を゙不安にする為これらの事をやる、と。
メモメモ。
老中首座坂倉伊賀守「もはや許さぬ」
忠順が呼ばれて御用部屋に行くと旗本の山岡鉄太郎、松岡万と庄内藩清川村の郷士清河八郎が居た。
坂倉「小栗、松岡を先鋒として都に遣わす」
山岡「そこいらの浪士などものの数ではないわ」
清河「将軍家茂公ご上洛の砌は我らが守護致します」
↑なるほど。
こういう流れで清河八郎はのちの新撰組・新徴組メンバーを募り、家茂公の護衛で京都に行ったと。
この男(清河)、胸板も厚く、なかなかの偉丈夫である。
江戸に出て北辰一刀流千葉周作に剣を、安積艮斎に朱子学を学んでいる。
この間、蝦夷地から長崎まで歩き、旅日記『西遊草』も纏めている。
その後、神田お玉ヶ池に清河塾を旗揚げし、尊王攘夷を策する会合「虎尾の会」を結成。
横浜の外人居留地の襲撃を図り、幕吏に追われた過去がある。
山岡「二月早々に出立致す。不逞の輩は斬って捨てる。何分、特段のご配慮をお願い申し上げる」
山岡がカネの無心をする。
隊員はいずれも腹に一物ある関東の浪士達。
水戸脱藩の芹沢鴨、後に新撰組を結成する近藤勇、土方歳三、沖田総司、藤堂平助、山南敬助、その他博徒あがりの祐天仙之助ら二百三、四十人。
しかし、上京するや清河はガラリと態度を変え「尊王攘夷の先鋒たらん」と忽ち本性を表す。
慶喜や会津藩は激怒。
清河一派は江戸に戻され、残った近藤、芹沢が新撰組を結成する。
壬生浪の誕生である。
裏切った清河は粛清された。
文久三年(1863)二月十三日、将軍家茂が上洛。
老中首座坂倉伊賀守も馬上の人となり京へ出立した。
230年ぶりの将軍上洛に伴い、老中始め総員三千人が陸路京へ。
その出費は、九月の上洛費用も併せると、大判五百七十三枚、金百七万六千百九十五両二分余、銀十一万三千四百九十五両一分に達し幕府の金庫は空に。
忠順は役職の賞与金の廃止、城中での昼膳の廃止などの切り詰めで乗り切った。
孝明帝は小御所で将軍を引見すると「従前通り将軍に政務を委任致すが、国事については朕が直接諸藩へ沙汰する事もある。攘夷は期限を決め、外国を打ち払え」と勅命を下した。
慶喜の根回しは失敗した。
↑外国を打ち払えて、何も知らない人が言うセリフや。
ペリーが軍艦引き連れて浦賀に来航した際、諸藩の小舟が黒船を取り囲んだけれど、軍艦から押し寄せる浪でまるで木の葉のように揺れて吐く者続出よ。

http://kinbundo.jp/smarts/index/27/#&gid=1&pid=1
↑これで、どうやって打ち払うねん!
この時対応した浦賀奉行は「攘夷など無理」と幕府に申し立てだで。
その時から状況殆ど変わってない。
開陽丸到着するのまだ先な。
今日はここまで。
5時に起床し洗濯とベランダガーデニングの水遣り。
合間に皆の朝食作りと藍建てチェック。

品温30度。pH11台。気温24度。
藍ちゃん活性化中。
9時半から読書と調べ物。
11時半から昼食の用意。
納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
12時半から読書と調べ物。
14時から夕食の用意。
今夕は長女の彼氏と一緒に夕食を食べる。
テニスは一緒にやった事はあるが、食事会は始めて。
夫がお寿司を゙頼んだ。
自分はそれ以外のお吸い物やサラダ、唐揚げ、サワークリームケーキを用意。

勿論、ウォッカ梅酒ロックも。
このあと、17時半から食べる事に。
歩数計は5326。
充実した1日だった。