arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1455日目と畑と藍建て⑤と小栗上野介⑥

2025/9/2火曜日

4時15分に起床し畑の準備。

今日は便意をもよおさなかったので4時40分に畑へ。

今日も夏野菜を片付けては耕し、秋野菜の種蒔き。

ビーツの種蒔きをした。

一通り水遣りをしたら6時45分に帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣りと藍建てチェック。

品温は32.2度。

リトマス紙は紫色。

pH11台。

 

やる事やったら8時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介

 

忠順は対馬で何ら成果を挙げなかった事に対し責任を取り外国奉行を辞任。
兄貴分の栗本の助言もあり、後日、忠順は外国奉行退任の挨拶も兼ねイギリス公使オールコックと面会。
オールコックはイギリスの力でロシア軍艦を退去させた事を誇示。
更に「日本の将来は我がイギリスが鍵を握る(←予告しとる)

もし、我々が日本から引き揚げれば日本はロシア帝国の一部になる(←恩売ってる)ロシアは実にうさんくさい国で、外交官を江戸に置くことすら避け、箱館に総領事を置き、日本近海に協力な艦隊を置いている(←ロシアディスってる)オグリたちの動向をニューヨークまで行って探ったではないか(ロシアは悪いと洗脳工作)」
文久二年(1862)正月十五日、安藤が坂下門で襲われ負傷。
安藤は失脚。
新幕閣は小栗忠順小姓番組として出仕命令が下された。
小姓番組は若年寄の配下で二千石以上の旗本から選ばれる将軍の側近。
この四月にハリスが駐日公使を辞任。
安藤信正はハリスに日本刀一振りを贈った。
忠順は文久二年五月には御軍制御用取調に転じた。
弱い軍隊しか無かったシナは香港を占領され屈辱を味わっている。
幕閣もこれに気づき軍制改革に踏み切った。
忠順の他に、池田甲斐守、大岡豊後守、酒井壱岐守、松平出雲守、伊沢美作守、駒井山城守、井上信濃守、木村摂津守、服部帰一の十名が兼務のまま御軍制御用取調の辞令を受けた。
池田は留守居、大岡と酒井は講武所奉行、松平は勘定奉行、井沢と駒井は大目付、井上と木村は軍艦奉行、黒川と服部は目付。
更に、大関肥後守、内田主殿頭、浅野伊賀守、川勝丹波守、勝麟太郎、神保伯耆守、大井十太郎、山口信濃守、池田修理、塚原冶左衛門、立田録助の11名に辞令が。
この時小栗忠順36歳。
勝麟太郎40歳。
幕府近代化路線を巡る勝との対立の始まりであった。
文久二年四月に安藤が、六月に久世が退任。
老中は水野和泉守忠精、松平豊前守信義、板倉伊賀守勝清、脇坂中務大輔安宅。

備中松山藩主の板倉が全権を掌握した。
未曾有の困難にあたるべく、若い将軍家茂を補佐する将軍後見職一橋慶喜政事総裁職松平春嶽京都守護職松平容保京都所司代松平定敬が配された。
板倉はアメリカ帰りの小栗を頼りにした。
そしてもう一人の強力な助っ人が板倉と同世代の若年寄、長崎唐津藩主小笠原図書頭長行である。
江川太郎左衛門の塾で砲術を学び陸海軍の創設に意欲的。
忠順は水を得た魚のように海軍の整備計画の策定に没頭。
実務担当者は木村摂津守と軍艦頭取の小野友五郎、肥田浜五郎。
日本を外敵から守るのに一体、何隻の軍艦が必要か。

それを何処で造り、その資金はどうするのか。

アメリカが駄目なのでオランダに留学生を送り、併せてフリゲート艦一隻を発注。
壁は世間の無理解。
御三家を初め諸国の大名は外国船など打ち払えば良い、なとと呑気な事を言っている。
忠順は日本全国を六つに分ける「六備艦隊」構想を纏めさせた。
後の連合艦隊である。
忠順は江戸、大坂とその他の地域の二つに分けて艦隊を配置。
①中型のフレガット級帆走軍艦 三隻
②コルヘット級蒸気軍艦 九隻
③蒸気運送船 一隻
④小型コルヘット級帆走蒸気船 三十隻
等を江戸、大坂に配備する事を謳った。
合計四十三隻
江戸と大坂の割合は江戸ニ、大坂一とし乗員は約四千九百人、うち士官四百七十四人、水夫と火焚三千八百六十人、水兵五百七十人とした。
他の地域は東海、東北、北海、西北海、西海、南海の六つに分け、東海艦隊は江戸に置く。
東北は箱館、北海は能登、西北海は下関、西南は長崎、南海は大坂に基地を設け、フレガット級三隻、コルヘット級九隻、小型蒸気軍艦四十隻を配する。

乗員は六万人とした。
問題は資金。
老中板倉伊賀守はこの構想に強い関心を示し、「あとはそちが勘定奉行に転じ、詰めてくれ」と命じ豊後守を上野介に改めさせた。
勘定奉行勝手方と聞き「亡き父もさぞやお喜びでございましょう」と母が言った。
オランダに派遣する留学生が六月に出発。
留学生は軍艦組の内田恒次郎、榎本釜次郎ら沢太郎左衛門、赤松大三郎、田口俊平の五人と蕃書調所の津田真一郎(フリーメイソン入会)、西周介(フリーメイソン入会)、長崎養生所の医師伊東玄伯、林研海、それに水夫や鋳物師、時計師、船大工、鍛冶職、宮大工などの職方を加え合わせて16人。
軍艦組はオランダに発注したフリゲート艦の監督及び軍艦操縦、造船術、機関学、砲術、測量術などの研修。
津田と西は法律、国際法、財政学、統計学等を学ぶ。
出発に先立ち内田と津田、西の三人が挨拶に来た。
内田は旗本内田主膳の婿養子で以前からの知り合い。

25歳だが蘭学の素養があり、家格もあり、品行方正という事で団長格に選ばれた。
一行は

①如何なる場合も日本の秘密を漏らさない。

キリスト教に入信しない。

③本朝の風俗を改めない

等数箇条を誓書にし血判を押している。
文久二年六月十八日、忠順は軍艦奉行井上信濃守と品川まで一行を見送った。
大勢の旗本達に取り囲まれた青年が居る。
「あの男は誰か」
「榎本釜次郎です」
「あれが榎本か」
「なかなか剛胆な男でございます」
「それは頼もしい」

忠順は八月に江戸町奉行も兼任に。
その八月末に武蔵国生麦村で異人の殺傷事件が起こった。
上海に住むイギリス人の商人リチャードソンとボラデール夫人がクラーク、マーシャルという横浜に住む男達と生麦の街道を馬でやって来たところ、大名の行列に出くわした。
薩摩藩主の父島津三郎の一行である。
「脇に寄れっ」と言うのでその通りにすると、今度は「引き返せっ」と怒鳴る。
リチャードソンが馬首を巡らし右往左往した時、突然、行列から数名の男が抜刀して襲いかかりリチャードソンの喉を斬りつけた。
リチャードソンは瀕死の重傷を負い、駆け付けたイギリス人医師ウィリスの手当の甲斐もなく息を引き取った。
クラークとマーシャルも深手を負った。
横浜の外国商人達は大騒ぎとなりイギリス海軍海兵隊を上陸させ島津三郎を包囲して捕縛する準備を始めた。
事態は深刻。
アメリカ、フランスも加われば生麦で戦闘が始まる。
イギリス領事ヴァイス中佐の冷静な判断で事件の処理は幕府に一任する事に。
その賠償金の請求額は四十四万ドル。
イギリス海軍は旗艦ユーリアラス号、砲艦リングダヴ号にレオパード号、パーシュース号の二隻のスループ型軍艦を新たに加えて示威行動。
6週間以内に払え!と言う。
↑ペリーの黒船再来てすわ。

全ては薩摩が悪い。
日本の事情を知らないイギリス人商人を理由もなく斬った事は許されない。
しかし、四十四万ドルが日本にとってどれほどの金額か知って要求するイギリス人。
↑ぼったくりやろ。
四十四万ドルて今のお金に換算すると20億円。
https://namamugi.yokohama/archives/1563

 

そのリチャードソンさんがどれだけ偉大な商人だったかわからないけれど、イギリスでは商人死亡の賠償金は20億円が相場だったん?
現代は飛行機事故の場合も3千万円。
四十四万ドル=十万ポンド=五十億円
何か気に入らないと海兵隊を上陸させ軍艦を使い示威行動。
ヤクザとかわりませんな。


この頃の幕府の台所事情は、よく使われる資料『吹塵録』に1844年の数字がある。
幕領からの年貢収入、全国の金銀山からのあがり、長崎貿易のあがり、献上金等の経常収入が182万7千両、御用金、貨幣の益金、繰越金等の臨時収入ご218万3千両。合わせて401万2千両。開国時のレートでドルに換算するとせいぜい百万ドル。
四十四万ドルが如何に法外かわかる。
てか、リチャードソンは幕府歳入の半分近くの収入があったんか?
ボッタクリ確定。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫には冷やし中華を調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁でお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

16時から夕食作り。

ゴーヤ炒め、大根の煮物、サラダ、ご飯、長男のお弁当のおかずの卵焼き、各種野菜の焼き物、残り物の味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。

18時半にご飯が炊けたら食べる事に。

 

歩数計は11573。

充実した一日だった。