2025/8/30土曜日
4時に起床し5時に畑へ。
纏った雨がずーっと降っていないので土はカチンコチン。

水遣りをしてから6時20分に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣り、納豆作り、藍建て2日目のチェック。

品温31.1度。
pH11.36。
灰汁を500ml追加しpH12以上に持って行った。

やる事やったら9時40分から読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「小栗上野介」
9/12, 香港島に上陸。
何処に行ってもシナ人が群がり「どのような用件で来たか」と筆談で執拗に問う者もいる。
しかし、イギリス兵が街の至る所にいて、群がるシナ人を鉄棒で殴り(!)あたかも犬馬を扱うように蹴散らし追い払う(!)これは想像を絶する悲しむべき光景であった。
イギリス兵がいくら追ってもシナ人は日本人の後ろを追いかけ涙を流す者さえいた。聞けば日本人の服装にかつての自分達の姿を思い浮かべ懐かしんでいるという。
異国に占領されたシナ人の悲しみが伝わる。
日本の知識人はシナを先進国として崇めシナの学問を学ぶ事で己の教養を高めて来た。
しかし、目の前に見るシナ人は、イギリス兵に足蹴にされまるで虫けらの如く扱われている。
「シナ人は英人に役せらるること犬馬の如く。汚穢労艱の事はシナ人、全てこれを司る。その他の産にして他に得せらるることかくの如し。傍観切歯に耐えず」と随行員の1人、玉虫は記している。
↑この様相を見た日本人は皆、開国一択になるんよ。
もし、攘夷なんてしたら、日本人もこうなるて分かるから。
攘夷、攘夷言う奴にはこの中国人の様子を見せれば良かったんよ。
ちなみに、高杉晋作もこれ見たから。
これ見て開国しかないな、て感じたのに攘夷、攘夷言ってたから。
帰国後の万延元年(1860)11/8、忠順に外国奉行の辞令が。
夜、一族郎党が集合。上州権田村から藤七も来た。
体調を崩し休んでいた森田岡太郎も出席。
用人の広瀬格蔵に六分冊のアメリカ日記を出させた。
そして、19歳の恵三郎も『花旗航海日記』を纏めていた。
↑読んでみたい。
森田は『亜行日記』の他に『無題手探』『亜米利加航海出入簿』『宝貨筆記』『航米雑詩』など実に細やかな記録を残し忠順の補佐役として十二分に職務を果たした。
しかし、心身の衰えは酷く再び体調を゙崩し文久元年(1863)5月に病死。
忠順とかれこれ語ったのもこれが最後だった。
12/1、忠順は新見豊前守、村垣淡路守、木村摂津守らと共に登城。芙蓉の間で老中首座久世大和守から金十枚を拝領。
終わって木村と懇談した。
木村は参勤交代など無駄な費用を極力省き軍事費を捻出する必要を゙説いた。
特に海軍を整備するのに膨大な金が掛かる。
当時、観光、咸臨、朝陽、蟠竜の4隻の軍艦しか無い。
↑蟠竜と言えば松岡磐吉艦長。
この時にはもうあったのな。
加えて、海軍操練所も名ばかりで士官の養成もすべからくこれから。
そうした中で御軍艦組の小野友五郎と肥田浜五郎からは国産蒸気軍艦の造船計画が出されている。
小野も肥田も今回の訪米組メンバー。
長さ二十分の一の模型を作り水槽で実験を行うと申している。
近々、小野友五郎をお屋敷に遣わすので話を聞いてくだされと頼んできた。
小野はすぐ訪ねてきた。
勝のような高慢さはなく素朴な人柄である。
小野は航海中船酔いで寝てばかりの勝麟太郎に代わり咸臨丸を操縦していたアメリカ海軍のブルック大尉の補佐をした。
更に小野による天体観測は寸分違わぬものであったらしい。
小野は常陸笠間の人で家禄を持たない下級武士の出。
幼児より算盤、算術に優れ江戸に出て高度な和算を学び36歳で幕府天文方に出仕。
そこから長崎に出て数学、物理学、天文学、オランダ語を修め、更に航海術、造船術を身に付けた。
小野は江戸近郊石川島に造船所、鉄工場、鋳造工場が火急速やかに必要であり、その為に蒸気鎚や平削盤、汽罐製造用の鋲打機、ボール盤、鉄板切断機などの工作機械の輸入を図らねばならないと語った。
小野は更に、アメリカでガンボート(砲艦)と呼ぶ船を十隻程度配備する事が肝要で、これは平底の小型の蒸気軍艦で喫水の浅い江戸湾を自由に走り回り侵入した外敵に対して砲撃を加えるものです、と続けた。
小栗は、いずれ外洋を走る大型の軍艦も必要になろうと聞くと、勿論です、と小野は答えた。
小栗は外国方の事務室で同僚の田辺太一、福地源一郎、益田孝、箕作秋坪、柴田剛中らと論議を交わし、議題は攘夷派の暴挙が再び起こるのではないかという事と、ロシアが次にどう出るかであった。
暮れから翌春にかけて恐れていた事が現実に。
第一の事件は暮れの12/5, 午後9時に起こった。
この年七月、プロシアのオイヒンブルク伯爵が日ロ修好通商条約を結ぶ目的で来日。
芝赤羽根の外国人応接所に入った。
幕府とプロシアの間に入って斡旋の労を取ったのがハリス。
秘書官のヒュースケンが麻布のアメリカ公使館から赤羽根に馬で通い世話していた。
この夜、ヒュースケンが帰る途中、突然4,5人の暴漢に襲われた。
ヒュースケンは瀕死の重傷を負い善福寺に運ばれたが夜半に死亡。
知らせを受けた忠順は善福寺に駆け付けるとハリスに「何故このような事に!」と責められた。
護衛を付けて置きながら凶行を防げず犯人を取り逃がした不始末は大きい。
後日、薩摩藩の伊牟田尚平らの犯行と判明。
英、仏、蘭の行使は江戸を引き払い横浜に引き揚げた。
幕府はヒュースケンの家族に洋銀一万ドルを送り解決を見た。
続いて翌文久元年二月、ロシアの軍艦が対馬を占拠する大事件が。
占領したのはロシア軍艦ポサドニックで艦長ピリレフは強引に水兵を上陸させ測量を始めた。
ビリレフは対馬藩主宗対馬守義和に大砲五十門を献上する代わりに西海岸の芋崎一帯にロシアの海軍基地を造る為の租借を要求。
有無を言わせぬ対馬占領である。
↑いきなり勝手に人の国侵略すんなコラ。
対馬藩は重臣大浦教之助に交渉させたが埒があかず大浦は病気を理由に辞任。
その後、誰が当たっても全く歯が立たず。浅芽湾内をボートで乗り回し勝手に木材を伐り、芋崎に小屋掛けするなど傍若無人の振る舞い。
警備に当たっていた武田吉之助らの小舟がロシアのボートに取り囲まれ武田が人質として連れ去られた。
武田は間もなく返されたが今度は毎日のように野菜や家畜を盗みに上陸。
島民の我慢も限界に。
↑これ、態とやってないか?
薩摩藩が江戸でやったよう騒擾作戦。
対馬藩、果ては幕府を煽る為に。
藩内の攘夷派は兵五百を動員し攻撃の構えをとり、藩主義和は苦境に。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫には蕎麦を調理。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
17時半から夕食作り。
合間に藍建てチェック。

ベランダに置いていたら品温37.5度まで上昇。
調べたら藍建ての品温は28度前後が良いそうだ。
高過ぎるやん。
明日からは気温が高くなる午後には屋内に入れる事に。
そして、pHは11.8だったので、灰汁を追加しpH12.1に。
自分が参考にしたサイトはpH12以上を推奨していた。
けれど10.6位と言う人も居る。
全然数値が違うのだが。
pHを測定しバケツの中の様子を観察し、見極めて行く事に。
ちなみに今のところ、何の変化も無い。
泡も立たない。
すくもちゃんは熱中症で死亡してしまったのだろうか。
気長に変化を待つ事に。
18時半から夕食。

ぶり大根、麻婆茄子ゴーヤ、サワークリームドレッシングサラダ、ローストナッツ、ご飯、味噌汁、赤紫蘇ジュースウォッカ梅酒ロック。
良く呑み良く食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は7854。
充実した一日だった。