2025/8/29金曜日
3時半に起床し調べ物。
4時50分に畑へ。

水遣りをしたら帰路に。
6時半に帰宅後シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水遣り。
そして、藍建てに初挑戦。
まずはふすまの準備。
ネットで検索したが余り取扱が無い。
しかも自分が必要とするのは100g。
家に石臼と玄麦があるので自分で用意する事に。

篩分けが大変だった。

ピンクのタッパーに70gゲット。
ふすまはすくもの微生物の餌になるらしい。
すくもは500gだから、これで足りるのでは、と妥協。
これに灰汁200mlを加え弱火で煮る事に。

ついでに第三灰汁用の熱湯も沸かした。
その間、すくもをチェック。

ポリバケツに入れ、こねこね。
お湯が沸いたら灰汁の入った鍋にイン。
そこから第三灰汁をまずは1000mlすくもの入ったポリバケツへ。
ここでひたすら混ぜる。
空気を入れながら混ぜると良い、とあったので泡だて器でやってみた。
少量だからやれる。

そこへ、柔らかくなったふすまをイン。

更に混ぜ混ぜ。
その後はベランダに放置。
この時点で品温44度、pH9.5。
急遽第一灰汁500ml追加し撹拌。
pH10.9に。
更に第二灰汁500ml追加。
pH11.6に。
藍建て仕込み完了。
10時半から読書と調べ物を゙する事に。
昨日に引き続き、星亮一著「小栗上野介」
小栗忠順の本姓は松平。
初代は松平隼人正。
三代吉忠の時から母方の小栗姓に替わった。
元亀元年(1570)姉川の合戦の時である。
家康の本陣が急襲され敵に攻め込まれた。
家康の側に居たのが16歳の忠政。
忠政は槍を振るい敵と渡り合い見事討ち取って家康の危機を救った。
以来忠政はあらゆる戦場で一番槍を達成。
「おおー、又も一番、又も一番か」と話題になり家康の命令で又一を名乗るように。
秀吉の死後、家康が供奉36人を従えて大坂城に出仕した時、大坂方が供奉が多いと入城を拒んだ。
家康は榊原、井伊、本多、小栗の4人を太刀持ちに選び入城。
忠政又一は元和元年(1615)62歳で没したが小栗家は代々又一を襲名。
忠順も通称又一を名乗った。忠順は初代から数えて十二代。
父忠高は新潟奉行を務めたが任期途中で亡くなっている。
安政六年(1859)9月13日、小栗忠順又一は大老井伊直弼から亜米利加使を命ぜられた。
その日、家に帰ると栗本瀬兵衛が来ていた。
瀬兵衛は幕府の漢方医喜多村塊園の息子で17歳で安積艮斎の塾に入り忠順の屋敷にやってきた。
容貌魁偉の5歳違いの幼馴染である。
漢方医の倅で官吏になれず長崎に出奔。
蝦夷地に飛ばされた。
↑そこで村垣淡路守に会った、と。
忠順の妻道子は播州林田藩一万石建部内匠頭政醇の娘。
忠順23歳、道子16歳の時結婚した。
内匠頭の江戸屋敷は小栗家に近く二人は幼馴染。
小栗家は旗本で神田駿河台に千坪を越える屋敷がある。
旗本と言ってもピンキリ。
小栗家は大身で屋敷には常に二十人近い従者が居る。
旗本の仕事は幕府の役職に就く事。
大老、老中、側用人、若年寄などは大名が独占。
旗本は将軍側近の側衆、小姓衆、小納戸衆、中奥家。留守居衆、大目付、目付、町奉行、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、作事奉行、普請奉行、金奉行、川船奉行、旗本奉行、鉄砲玉薬奉行、京都町奉行、大坂町奉行、などの役職に就く。
他に駿河城代、奈良、長崎、下田、新潟、佐渡、日光奉行、大番、書院番、小姓組、小十人組、弓頭、持筒頭、鉄砲頭といった役もある。
しかし、旗本の数は千人。
上席ポストは限られておりそこまで到達出来る人は少ない。
そこでお互い切磋琢磨し勉学に励む事になる。
忠順はのんびり育ち漢学を学んだのは8歳から。
屋敷内にあった安積艮斎の塾で手ほどきを受けている。
安積艮斎は陸奥国安積郡郡山の八幡宮司の家に生まれ。
二本松城下で儒学を学び、江戸に出て岩瀬忠震の叔父林述斎の門に入った。
林家は家禄三千五百石、代々幕府の儒者。
一万石の大名に匹敵する広大な屋敷を構え厳然たる力を持っている。
艮斎は2年でここの代講を務めたほどの人である。
忠順は剣を島田虎之助、柔術を窪田助太郎、砲術を田付主計に習った。
初登城は15歳。
父忠高は物静かな人。
隣家の旗本中川飛騨守忠英の四男で17歳の時小栗家の養子に。
5歳の長女邦子の成長を待って夫婦になった。
忠高は30歳で御小姓組に召され、その後御使番から西丸目付へ。
狩衣を着る布衣を許され、留守居番、持筒頭、新潟奉行と出世したが、忠順が浜御殿詰の年に病没。
忠順が青年になり自分の進路を考え始めた時、幕府の中心は海防掛。
そこには水野忠徳、永井尚志、大久保忠寛、堀利煕、岩瀬忠震らの俊英が居た。
小栗のアメリカ行きを聞きつけ上州権田村から名主の藤七が駆け付けた。
すると小栗は藤七を連れて行くと告げた。50歳過ぎの藤七は尻込みした。
が、小栗は「名主たる者アメリカを見て文明を学び、村の者どもに伝えてくれぬか」と言った。
小栗はアメリカ訪問で造幣局を訪れた。
従来の交換比率に物申す為である。
デュポン大佐と通訳ポートマンが案内。
森田と勘定方の益頭駿次郎、辻芳五郎、目付方の日高と刑部、それに通訳の名村が同行。
塚本と江幡祐造、福島恵三郎の三人には贈り物や天秤を持たせた。
造幣局長スノウデンはアメリカ政府の財務官や多くの技師と共に小栗忠順の来訪を待ち受け多くの新聞記者も詰めていた。
スノウデンは疑い深い目で忠順を゙見つめた。
しかし、スノウデンの目はすぐ驚きに変化。
金銀を散りばめた刀の鯖に吸い寄せられ知性溢れる忠順の表情に魅せられた。
そして、忠順は提案した。
日米両国の金貨を溶かし、始めに金の含有量を明らかにする。
そこから交渉を始めようと言う忠順の提案である。
塚本に秤を出させ、天秤を取り出し皆に見せた。
その瞬間、アメリカ側からどよめきが。
台部に象牙が施され、計りの部分に精緻な目盛りが刻まれ皿と錘がついている。
その精巧な造りに感嘆。
益頭に金貨を出させると
「Oh!Cobang!Beautiful!」とスノウデン局長が感嘆の声をあげる。
忠順は「益頭、秤に」と言うと益頭が三枚の小判を一つずつ秤にかける。
寸分の狂いもなく同じ分量である。
日本とアメリカの交換比率は前にも言ったように日本の一分銀三枚とアメリカの一ドル銀貨一枚である。
これは銀の含有量てはなく銀貨そのものの重さである。
一分銀三枚で一両小判が手に入る。
これはどう考えても理に合わぬ。
忠順はこの問題にケリをつけようとしたのである。
日本の小判はどれも同じ数量である事が明らかになった。
次は一両小判にどの位の金が含まれているか、それをアメリカ人の目の前で明らかにすることだ。
スノウデンが小判を分析室に運ばせた。
溶かして金の含有量を調べるのだ。
アメリカ政府の財務官が立ち会うので不正は無い。
「Oh!」
技師達がまた感嘆の声をあげた。
が、スノウデンは「オグリ、結果は明日になる。今日はこれで終わりだ」いささか拍子抜けの形だが致し方ない。
翌日、検査が再開。
三枚の小判から金が抽出され、最後に金を゙抽出した後の小判の重量が計られた。
金の純度は三枚とも完全に均一で全て正確無比。
辻が机上の算盤をパチパチ弾いて計算を始めた。小判の金の含有量は79.375グレイン(一グレインは0.0648グラム)で一ドル金貨の含有量、32.22グレインを゙大きく上回った。
「Ohh!!!」
財務官が手を広げた。
小判の混合物は微少の銅を除くと大部分が銀である。
対するアメリカは銅が多く、結局一枚の小判の価値は金三ドル五十七セントに相当するという結論が出た。
アメリカ側は忠順の頭脳に兜を脱いだ。
終わってパーティーがありスノウデン局長がスピーチ。
「オグリ・ブンゴ・ノカミ、あなたは日本の知性を我々に見事に見せた。アメリカ合衆国と日本帝国との間に通貨交換、為替レートという極めて難しい問題があることが、はっきりした。新しい為替レートがアメリカと日本との間でいすれ締結されるであろう」
↑ハイー、この瞬間、小栗忠順は暗殺抹殺者リストにのっかりましたとさ。
で、日本侵略、金発掘に拍車が。
南米大陸でもアステカ帝国だっけ?
宮殿に敷き詰められた金を見て、殺すつもりなかった王様をその場で殺害して征服する程、金がだーいすき❤️
食べれないのにね。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
夕方、すくもちゃんを撹拌&チェック。
品温33度
ph10.99だったからph13の灰汁600ml追加して12.3に。
ちなみに灰汁は第一から第三まで分けて、pH数値をメモして管理。

丁度梅干しと味噌用の樽に空きがあって良かった。
他の人の藍建ての仕方を調べて試行錯誤しながらやる事に。
17時半から夕食作り。

ホッケ、ゴーヤとイカの中華麹炒め、チーズ竹輪、枝豆、サラダ、ご飯、味噌汁、ウォッカ梅酒ロック。
今日は老夫婦2人の夕食。
そういう時は、如何にお酒を美味しく呑むか、をテーマにおかず作り。
今日はホッケが一番人気。
脂ノリノリで最高に美味しかった。
後片付けを済ませたら営業終了。
歩数計は5399。
充実した一日だった。