2025/8/27水曜日
4時半に起床し5時10分に畑へ。
今日は黒い芋虫が出迎えてくれた。

全部で三匹を駆除。
水遣りを終えたら6時半に家路に。
帰宅後シャワーと洗濯。
合間にベランダガーデニングの水やりと、黒炭クッキー、りんごゼリー、パン生地作り。

やる事やったら読書と調べ物。
昨日に引き続き吉村昭著「暁の旅人」
養父の松本良甫によると、新政府軍が江戸に入ってきた時の混乱について、旧幕府関係者は一人残らず捕らえて首を刎ねると噂が流れ、王子にある雇女の家に逃れた。
やがて、上野の戦があって敗走した彰義隊の摘発が王子一帯で行われた。
上野の山から逃れた隊員達は隣接の尾久村方面から王子方面に落ちてきて彼等を匿う農家もあった。
そのうち、新政府軍の兵達が大挙して繰り込み家々に踏み込んで虱潰しに探し回り、潜んでいた隊員を引きずり出すと容赦なく斬殺。
↑この所業、日本人じゃありませーん。
養父達の避難していた農家にも何度か押し掛けて来たが幸い危害を加えられる事は無かった。
が、生きた心地はありませんでした。
↑元寇再び!
明治八年、東京日日新聞にドイツ留学中の長男銈太郎の記事が掲載された。
「留学生松本銈太郎、独逸で化学上の発見」という見出しで。
しかし、明治十年にドイツの銈太郎からの手紙に心を痛めた。
足に激しい痛みが生じ足が氷のように冷たく歩行も叶わないと。
順は脱疽に罹患しているのでは、と予測。明治十一年には下肢切断の便りが。
術後、銈太郎は担架で横浜に帰港。
壊死が止む様子も無く、明治十二年四月、銈太郎は逝った。
享年三十歳。
六月、順は辞表を提出。後任に甥で次官の林紀を推薦。
隠居の身となった。
その林紀は3年後の明治十五年(1882)6/18に有栖宮熾仁親王がロシア皇帝の戴冠式に参列の為ロシアに派遣されるのに際し、林は軍医総監として随行を命じられフランス郵船「タイナス号」に乗って横浜を出港。
一行中には林董と改名した順の弟信五郎も加わっていた。
一行はフランスのパリに着いたが林は7/25, 腎臓炎を発症し病床に臥した。
フランス人医師が治療にあたり八方手を尽くしたが快方に向かうこと無くそのうちに気管支炎を併発。
8/30に客死。
享年39歳。
陸軍卿は大山巌で、大山は隠居の身の順に再び軍医総監への就任を゙依頼。
順はそれを拝命。
しかし、仕事らしい仕事もなく新しい事柄に手を付ける意欲もなく明治18年に軍医総監を辞職。
後任として橋本綱常を推薦した。
順は軍医本部御用掛を命じられたが、翌年軍医本部が廃され無職に。
55歳であった。
順は各地を旅し海水浴の効能について関心を持つように。
病弱の者が海水浴をする事によって健康を回復するのを知り、その普及に奔走した。
明治二十六年(1893)春、側室のなほの子である次男の鵰之助がドイツ留学を終え帰国。
直ちに正八位陸軍三等軍医に任じられた。正室の登喜は帰朝と任官に祝の宴を開いたりした。
夏、登喜が高熱で病床に。
劇症肺炎であった為、呆気なく死去。
10/9, 鵰之助が中心となり別荘で登喜の法要が営まれた。
鵰之助が魚を釣って霊前に供えたいと、舟を用意し急魚釣りに。
舟が馬入川の河口に差し掛かった時、舟が転覆。
鵰之助は溺死した。
明治四十年(1907)、順は心臓疾患を病み病臥。
3月12日、76歳で息を引き取った。
↑親族の不幸が異常に多い。
松本良順先生優秀且つ良い人過ぎたか。
12時に昨夜以来の食事。
夫は11時にサンドイッチを自分で作って食べていた。
お腹が空いていないので要らないと言われた。
味噌汁と納豆ご飯メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
15時半から夕食作り。
夫はそろそろお腹が空くだろうと予測。
パンは腹持ちしないからね。
17時に完成。

鶏もも肉の味醂粕漬け、ピザ、ゴーヤと高野豆腐の炒め物、長男のお弁当のおかず、もずくサラダ。
夫は案の定匂いを嗅ぎつけ登場。
焼き立てのアッツアツを食べていた。
自分はお腹が空かないのでいつも通り19時に食べる事に。
歩数計は7145。
充実した一日だった。