2025/8/25月曜日
3時45分に起床し畑に行く準備。
4時40分に畑へ。
畑に到着すると明るくなって来た。

効果が無かったので次は乳製品でやってみる事に。

一通り水遣りをしたら6時20分に家路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら8時半から読書と調べ物。
今日からはこの本。

吉村昭著「暁の旅人」
幕末から明治に掛けて活躍した医師松本良順の話だ。
中国からの船の乗組員が上海方面にコレラが流行と話した。
町の者たちは36年前、文政五年(1822)にコレラが流行。
山陰、山陽道に突然発し瞬く間に京都、大坂へ拡大。
猛威を奮った。
感染した者は三日を経ずころりと絶命する事から「三日コロリ」と称された。
アメリカの軍監ミシシッピー号が中国を経て長崎に入港。その直後から町の至る所で異様な症状を示す病人が一斉に出た。
突然、激しい下痢が起こって便は白い水様便に。
嘔吐が続き眼窩はくぼんで頬骨が突出。
声はかれ唇は紫色に。
意識が混濁し短時間に死ぬ。
まさに「三日コロリ」
コレラ患者は忽ち各町々に拡がり附近の村々にまで達した。
そのうち、外国人が井戸に毒物を投じた事が原因だという噂が拡がった。
町医は患家を走り回ったものの手が付けられない。
長崎は西欧の文物が導入される地だけにオランダ医学への信頼感が強かった。
ポンペに治療依頼が。
ポンへはコレラ治療が急務と考え、伝習所での講義を中止。
ポンペはキニーネと阿片を配合したものを投薬し、入浴させる方法を採りたいと言った。
更にポンペの提言に応じ、魚類では鯖、鰆、鮪、蛸、鰯。
野菜類ではカボチャ、トウモロコシ、冬瓜、胡瓜、茄子を食べることを禁じ、7/14には鶏、豚の肉を禁じた。
人口約六万人の長崎の町でコレラに感染したのは1583人。
うちポンペと良順が治療に当たったのは計601人。
死者は221人。
また、日本人医師が治療した患者は982人。
うち死者は546人。
↑こんなん、悪魔👿が躍動すればいくらでも操作出来る。
コレラ患者は長崎から各地に拡散。
九州一円から四国、大坂、京都へ。
七月上旬には江戸へ。
更に奥羽から津軽海峡を越え箱館まで。
↑船(船員)によって拡がっている。
小鹿島果編の「日本災異志」では江戸中の諸寺院が取り扱った死者数を総計。それによると26万8千人。
そうした中、徳川家定が病没。
漢方の奥医師達の治療が効果が無い為、7/3,蘭方医の伊東玄朴と戸塚静海が急遽招かれ奥医師に任じられている。
コレラの流行は止んだが世情は大きく揺れ、井伊直弼が安政の大獄を展開。
安政六年(1859)には長崎でも外国勢力一掃を唱える声が強くなり奉行所は警戒を強めた。
開国以来続々と入港してくる外国人は酒を飲んで暴れまわり、その為奉行所では「日本酒並蘭酒亜墨利加人江一切売りさ渡すべからず」という町触れを出した。
ポンペの講義は解剖学、骨学、靭帯学、動脈管学、薬理学と進められ聴講する者は40名に達した。
種痘については前年の11/8からバタビア政庁から取り寄せた痘苗でポンペは良順達と共に小児に接種を続けていた。
その年の七月、長崎では再びコレラ患者が至る所で発生。
7/24にアメリカ船から病死した者が居るので埋葬させて欲しいと申出が。
奉行所は許可。
更に27日にもアメリカ船夫の遺体が悟眞寺に運ばれた。
これによりコレラはアメリカ船により運ばれたという話が拡がった。
日曜日は休講。
良順は医生二人を伴って丸山の遊郭に登楼。
宿所に戻り、食事を摂った1時間後、下痢と嘔吐を開始。
ポンペに往診を依頼。
すると真性コレラと診断された。
そして、キニーネと阿片を溶かした薬液を飲ませ浴槽に浸らせた。
2日後に治った。
↑病気は悪い奴らが仕掛けている。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
2人で納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
16時半から夕食作り。

サラダ、長男のお弁当のおかず、鮭、ペンネ、味噌汁、ブドウ、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒ロック。
19時から食べる予定。
それまで読書と調べ物をする事に。
歩数計は8506。
充実した一日だった。