arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1446日目と畑と「きずなつけ」⑩

2025/8/24日曜日

4時半に起床し5時に畑へ。

昨日トマトに白カビを発見したと思ったのはカイガラムシだった。

木酢液を振りかけてみた。

水遣りをしているとミツバチを発見。

花を覗き込んで撮影したらウリハムシも居た(笑)

6時半に帰路に。

帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダガーデニングの水遣りも済ませたら、読書と調べ物。

昨日に引き続き、鈴木忠昭著「きずなつけ」

 


「きずなつけ」の儀式を最初にやったのは初代世話役のまきと希世と言われている。
希世の父、忠兵衛の斬首が希世の目の前で行われた事は既出。
以来希世は精神障害に悩まされ発作が起きると手が付けられない状況に。
発作は「あじーい、あじーい」と喚く事から始まる。
まきが「何処が熱い?」と聞くと「体のてっぺんが燃えている」早く火を消してくれと言わんばかりにせがむ。
「ああ消してやる、消してやる」と言いながらまきは忠兵衛が斬首された際、希世は忠兵衛の懐に抱かれ忠兵衛の血を頭から被った事を思い出した。
その血の熱い記憶が今希世の全身を焼いているのでは。
まきは火照りで苦しんでいる希世の衣服を全て脱がし自分も胸をはだけさせると抱き寄せ希世の頭を、顎の下に押さえ付けた。「火は消した。もう消えた。なんにも熱くねぇ」
その事があってから希世の発作はピタリと止んだ。
あらゆる祈祷・お祓いを゙しても癒せなかった希世の苦悶がその時を境に嘘のように消えた。
まきが娘にとり憑いたもののけを追い払ったという噂が間もなく「念仏さま」の仲間に漏れ伝わり、まきが行った裸の抱擁の成果を奇跡、神業と信じ込んだのも頷ける。
夢や神頼みで人助けが出来るほど世の中は甘くない。
きずなつけが盛んになればなるほど孤児たちの収容が増えその衣食住を賄う資金不足が問題になる。
きずなつけを維持する為にはお金を集めなければ。
彼女達が知恵を絞った結果、寄付金を募集しようということになった。
まきが町野主水に相談を持ち掛けたのはその頃。
きずなつけは町野から紹介された旧会津藩士達の力添えで漸く維持の目処が付いた。
明治三十三年(1900)9月、会津戊辰戦争殉難者の三十三回忌法要が行われた。
その頃、雑賀まきは夏風邪をこじらせ体調不良だった。
が、この法要を生かされ者の重要な節目と考え法要が済むまでは死んでも死にきれないと、法要を乗り切った。

が、直後、体の支えを失ったように寝たきりになり翌年2月54歳で生かされ者の生涯を閉じた。
↑希世一人ぼっちになっちゃったやん(泣)
まきの死亡で「念仏さま」の世話役は娘の希世が2代目を継ぐ事に。
希世の世話役は大正十二年頃まで続けられたが、その間「念仏さま」が果たす役割は終わろうとしていた。
というのは戊辰殉難者の慰霊・供養を公然と行う事が出来る財団法人が国から認可を受けた。
町野主水は戊辰戦後ー賊軍の死骸に触れるべからずーという占領軍による「死体野晒し令」に抵抗。
↑なんちゅう法律や!!

 

会津藩殉難者の埋葬許可運動に奔走。
それが叶うと伴百悦らと共に放置された遺体の収容と埋葬に努めている。
町野の前後は一貫して戊辰殉難者の弔霊に向けられた。
町野が晩年危惧したのは生かされ者が一人減り、二人減りで、殉難者への慰霊・供養が途絶えてしまう事であった。
先日の三十三回忌法要では生かされ者の老齢化が進み生存者がめっきり少なくなっていた。
このままでは殉難者への弔いが自然消滅しかねない。
町野は自分が死んだ後も弔霊が絶えることが無いよう、方策を考えた。
戊辰戦争が五十年の歳月を経て、町野主水と有志が集まり殉難者弔霊の組織体を作る事に。
大正六年三月二十九日、財団法人会津弔霊義会が認可された。
財団法人会津弔霊義会が創始以来七十五周年を記念して平成五年三月一日に発行した小冊子がある。
それによると、政府への弔霊義会設立の働きかけは一度や二度では無かった。


町野主水1839年生まれhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E9%87%8E%E4%B8%BB%E6%B0%B4

 

大正二年(1913)9月、町野74歳の時、弔霊義会の会長になった町野主水は発起人76名と活動を開始。
大正三年、大正四年、大正五年と何度も財団法人設立願を請願。
大正六年やっと認可が下りた。
町野78歳。
町野は80歳を越える頃から体力が衰え家に引きこもる事が多くなった。
「世間ではわしの事を長生きして幸せ者だと言っている。だけんどその分苦しみも長かった」
町野が漏らした言葉である。
戊辰戦争を戦い、戦後は戦没者の埋葬に奔走。

晩年には殉難者の慰霊・供養が後々まで絶える事が無いようにと財団法人の設立を果たした。
「後は死ぬだけ」
戊辰戦争とその前後を死者に代わって見届けてきた。

生かされ者の最後の言葉である。
大正十二年六月九日
町野主水は84歳で永眠。
その頃、雑賀希世は頭痛とめまいに悩まされ床に寝たきりの日が続いていた。
自分の体が思うように動かなくなると娘のおもんに当たったりする。
町野主水の葬儀の日、希世が野辺の送りがしたいと言い出した。
おもんがその体では無理と宥めても聞き入れない。
希世には父忠兵衛が阿弥陀寺に埋葬された際、世話になった義理がある。
「恩知らずが。町野のじさまが居なかったら雑賀家はどうなっていたと思う?」
希世は自力では歩けない。
おもんが杖になって歩き始めたが一向に捗らない。
しまいにはおもんが希世を背負って町野家を目指す事に。
が、途中で葬儀には間に合わない事がわかった。
希世は一目でいいから町野のじさまを拝みたい、と諦めない。
そこでおもんは町野家の菩提所融通寺を目指すことに。
辛うじて間に合った葬列は今迄お目に掛かったことがない、奇妙な光景だった。
葬列の先頭には抜き身の槍が天空を指して掲げられ、如何にも「槍の主水」を象徴するように穂先が光を帯びてキラキラと輝いている。
町野主水の槍は、宝蔵院流槍術免許皆伝。
元治元年(1864)蛤御門の変で槍の手柄が評判になってから会津藩で槍の主水を知らない者は居ない。
おもんの前を槍が通り過ぎるとその後からズズ……ズズ……という音が近づいてきた。
音の主は荒縄で縛られた筵包。
道路の上を馬に引き摺られてやって来る。
その時、おもんに背負われていた希世が「おろしてくれ、早く」とおもんを叱りつける口調で言った。
希世はへなへなと路上に崩れ落ちると構わず土下座の姿勢に。
おもんが希世を庇い肩に手を掛けると希世はその手を払い除け「頭が高い」と一喝。
おもんにも跪くよう指示。
おもんには未だ筵包の正体が何であるかわからない。
希世に言われるまま慌てて地面に膝を折った。
希世は筵包を見た瞬間、脳裏に閃いた光景がある。
それは罪人塚から忠兵衛の遺体が移送された時の記憶であった。
忠兵衛は古箪笥の引き出しに納められたが、その上から筵で包み荒縄で括られていた。
今、目の前を通過する筵包の中は紛れもなく故町野主水の棺に違いない。
「花になってくだされ」
希世が町野主水の棺に声を掛けると、後は込み上げる思いを抑えきれなくなって、両手で激しく地べたを叩いた。
「花になって忠兵衛に会ってくだされ」
まるで駄々っ子のように身を捩らせて泣きわめく。
そこにはかつて忠兵衛の遺体に桜の花びらを振り撒いて涙一つ見せずに見送ったあの気丈な希世の姿は無い。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫にはラーメンを調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

16時から夕食と長男のお弁当のおかず作り。

シュウマイ、青椒肉絲、サラダ、卵焼き、ご飯、味噌汁、ローストナッツ、ウォッカ梅酒ロック。

18時半に夕食を食べる事に。

 

歩数計は8624。

充実した一日だった。