2025/8/22金曜日
3時45分に起床し畑に行く準備。
4時20分に便意を催されるもトイレに入った直後に寸止め。
そこから30分、トイレの中で読書と調べ物。
昨日に引き続き鈴木忠昭著「きずなつけ」
罪人塚に捨て置かれた忠兵衛の遺体については後日談がある。
浄土宗正覚山阿弥陀寺は会津若松の郊外越後街道七日町にあるが、この寺に忠兵衛の遺体が移送され改めて埋葬される事に。
そこには伴百悦、武田源蔵、町野主水、高津仲三郎らが或る遺体の到着を待っていた。
その遺体こそ他ならぬ雑賀忠兵衛である。
伴を始め、町野、高津、武田は忠兵衛と共に北越戦線で戦った同志。
伴は忠兵衛の不慮の死を知らされた時から密かに改葬を計画し町野らと連絡を取り合ってきた。
伴は戦後塩川収容所で忠兵衛と出会い寝食を共にするようになって以来まるで親子のように付き合う事に。
伴は仕事がら忠兵衛の弟誠兵衛が阿弥陀寺へ埋葬された事を知っていた。
兄弟が冥途で会えるよう同じ墓を選んだ。
会津藩戦死者の埋葬記録によると鶴ヶ城に仮埋葬されたものと城下で収容された分を合わせて1281柱が阿弥陀寺へ埋葬された。
阿弥陀寺で収容しきれなかった遺体は西名子屋町の長命寺に葬られた。
その数145柱。
若松城下の遺体埋葬が一段落すると今度は遠方各地の戦死者へと更に範囲を拡げる事に。
白河街道の戦死者は馬入村へ埋葬。
二本松街道の分は猪苗代へ。
米沢街道の分は塩川村。
下野街道の分は大内村。
越後街道の分は坂下へと。
合計14ヶ所。
埋葬者総数は三千余柱に。
坂下から阿弥陀寺へ運ばれた遺体は忠兵衛を除いて一人も居ない。
全くの例外だった。
埋葬の決まりを無視した忠兵衛の遺体搬送は、伴百悦の決断とそれを支持した町野主水らの協力無しには実現が困難であった。
まず、坂下と若松の間は五里(20キロ)を越える距離がある。
更に荷車が必要だが、空きが無い。
そこで野菜や鮮魚を運搬する大八車に目を付けた。
が、大八は大型で重量もある。
荷車だと人夫は二人で済むが大八は最低四人。
伴は距離を考え六人にした。
そして、大八車が借りられる深夜の運搬。
手当は弾むと言い、面倒事になったら俺が全責任を持つと言い作業員を確保。
伴は作業員頭を労い、古箪笥の引き出しに収まった忠兵衛の遺体を覗き込んだ。
そして「なんだこのザマは、ゴミだらけじゃないか」と怒鳴った。
すると頭は「おさむらい、それはゴミじゃありませんぜ」とその経緯を語り出した。
作業員の一行が罪人塚に到着した時、回りはすっかり暗くなっていたが、既に一人の老人が出迎えていた。
立会人の源兵衛である。
一行が塚の中を調べると忠兵衛の遺体は首と胴体が離されたまま無造作に捨てられていた。
源兵衛がその現場を目撃すると、堪らなくなって忠兵衛の頭部を拾い上げ赤子を抱くように両腕で抱えた。
遺体は酷く腐敗して異臭が強烈である。
作業員の一人が嘔吐すると他の者にも次々と移りやむなく一時は作業の手を止めた程である。
漸く遺体を箱の中に収容し終えた時、頭の目の前を黒い影が横切った。
頭は初め犬かと思った。
源兵衛の飼い犬が付いてきたのかもしれないと。
ところがそれは幼子で花柄の綿入れを着た女の子であった。
女の子は両手一杯に木の葉のような物を運んでくると遺体の上からパラパラと振りまいた。
頭は遺体に木の葉をばら撒くのは悪戯が過ぎると厳しく叱りつけたが一向に怯む様子が無い。
「また咲いてこな!」と女の子が独り言を漏らした。
ー花の季節が来たら、忘れずに咲いてくるんだよー
女の子は切なる願いを込めて散り積もった花びらを一心に掻き集めては忠兵衛の遺体に振りまく。
忠兵衛の遺体を収容した車が罪人塚を立ち去ろうとした時、女の子は立会の老人と一緒に見送っていた。
その女の子が頭に向かって「わたしはマレヨ」と名乗った。
そして「父上の事、宜しくたのみましたよ」とまるで大人のような口調で行ってからぴょこんと頭を下げた。
「なんだかわしの方までほろりとさせられましてな」頭は思い出しながら闇の空を見上げた。
明治二年(1869)五月二日、会津若松に若松県が設置される。
6/30には民政局の業務が全て若松県庁に引き継がれた。
民政局が廃止されるとその頭取久保村文四郎は任務を解かれ御役御免に。
久保村が国許へ帰るという噂が伴の耳にも届く。
伴にはどうしても許せない事がある。
先祖代々生まれ育った郷士に父子・兄弟・同志の死体が放置され見せしめと称して葬式どころか死体に触れることすら許されなかった。
これを非道と言わず何と言う。
もう一つ、にせ金犯取締を理由に疑わしい者を捕らえては拷問に掛け家族の目の前で斬殺した。
無法虐殺とはこのことであろう。
こうした占領軍の犯罪を直接指図したのが久保村文四郎である。
久保村には自らの罪を死を以て償わなければならない。
この謀殺が世の中に衝撃を与えれば、久保村の背後で戦後政策を操った薩長政権に会津戦争の戦後処理の拙さを悟らせる事になる。
7/12, 久保村文四郎は故郷の福井を目指し越後街道を西へ向かっていた。
同じ日、伴百悦は越後街道束松峠で久保村の到着を待ち伏せ。
久保村は突然躍り出た不審者が道路を塞いだのを見て「民政局頭取久保村文四郎と知っての狼藉か」と一喝する。
伴は頬被の手拭いをゆっくり取り外した。
「貴様、わしを斬って無事に逃げおおせるとでも思っちゃいまいな」
伴はそれに答えない。
躊躇わずに刀を振り下ろした。
「天誅」
かつて忠兵衛が脱走の際、会津を目指して束松峠を越えた山道を、今、伴百悦が西へ向かって峠を下りてゆく。
知人を頼って新津へ潜伏。
逮捕の手が回ったのを知っての自らの命を絶った。
戦後の挫折にもめけず、武士の意地を最期まで貫き通した生涯であった。
会津藩士・伴 百悦・明治三年六月二十二日没、享年44歳。
今日はここまで。
4時50分に畑へ。

水遣りを終えたら6時に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
8時から読書と調べ物。
9時半に買い物へ。
帰宅後、10時半から読書と調べ物を再開。
11時半から昨夜以来の食事の用意。
夫はご飯を食べるというので、納豆と味噌汁メインで残り物をおかずにお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
17時から夕食の用意。

茄子の古漬け、枝豆、サラダ、ゴーヤと桜海老の炒め物、牛すじトマトストロガノフ、ローストナッツ、昼の残りのゴーヤ炒め、ウォッカ梅酒ロック、
赤紫蘇ジュースは朝から昼まで呑んでいるので、夜は自粛。
19時から呑んで食べる事に。
歩数計は8182。
充実した一日だった。