2025/8/19火曜日
4時に起床し4時半過ぎに畑に行こうとしたら指向性浣腸エネルギー攻撃が発動。
しかも、トイレに行ったら寸止め。
させてくれない。
変態やろ?
しょうが無いからトイレで読書と調べ物。
5時過ぎに漸く排便させてくれた。
そんな仕事、嫌やわ。
そのまま畑へ。
出迎えの害虫は一匹のみ。

昨日、ゲリラ豪雨で結構な量の雨が降った。
普通、雨が降った翌日の植物はシャキーンと元気一杯に立っている。
が、うちの畑の作物はショボーン。
雨にかこつけて変な物撒いとるから。

持参した液肥を撒いたら6時に家路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
合間にクッキー作り。

9時半から読書と調べ物。
昨日に引き続き鈴木忠昭著「きずなつけ」
ここで伴の決意に心を動かされた若者が居た。
「同僚の無念を晴らすために、どうしたらいいか、正直迷っていたところです。丁度いい。私にも手伝わせてください」
伴は驚き武田源蔵を見た。
心細かった時だけに武田の志願が嬉しかった。
会津藩戦没者の墓所となった阿弥陀寺には1281体が改葬され、ここに収容しきれなかった分、145体は長命寺に運ばれ葬られた。
阿弥陀寺には『殉難者之霊』と書かれた墓標が建てられ小さな拝殿も設けられた。
が、占領軍から呼び出しが掛かった。
久保村文四郎である。
「殉難者之霊とは誰のこっちゃ、貴様ら賊軍であることを忘れやがって、只今即刻、墓標も拝殿も廃棄しろ!」
↑こいつ、日本人じゃねーだろ!
占領軍の命令で止むなく「戦死墓」と表記された。
この三文字碑は会津が被った屈辱の歴史を風化させまいと今日に至るまで会津若松市に建ち続けている。

戦死墓
https://mo6380392.exblog.jp/22544036/#google_vignette
p153血のぬくさ
会津から越後高田へ移送された旧会津藩士は千七百余名。
到着後、越後高田市内の寺院に分散収容された。
受け入れ先の越後高田はかつて佐幕色が強かった事もあって会津藩には好意的だった。
↑越後高田藩は元々上杉家の領地。
上杉謙信も住んでいた場所。
豊臣秀吉によって会津に転封させられた。
しかも、最後の方は徳川四天王の榊原氏が藩主。
第一陣の忠兵衛らは越後高田藩から鍋、釜、食器なども借り自炊にも慣れてきた。
忠兵衛の楽しみは同僚の収容先を訪ねる事。
退屈な捕虜生活には欠かせない慰めとなった。
忠兵衛の後から二陣、三陣と続いた藩士達は会津の最新情報の運び役でもある。
中でも「会津は今偽金問題で大騒ぎになっている」という話だけは信じられなかった。
新政府はにせ金作りを会津が仕組んだ新たな挑戦と受け止め、にせ金作りは厳罰に処すと、犯人とおぼしき者まで逮捕、拷問に掛け斬殺。
ここでも絶対権力者久保村文四郎が思いのままに振る舞った。
明治三年、若松県下犯罪者の記録によると犯罪者の中で流刑以上の刑に処せられた者の総数が123名あった。
その内訳を見ると偽金関連の犯人が100名。
しかし、裁判もろくに開かれなかった事から、犯人と疑われた者がでっち上げられて、数字の中に含まれていたのかもしれない。
犯人の斬首は親兄弟、妻子の目の前でわざと行われた。
見せしめである。
↑やっぱ、久保村文四郎は日本人じゃない。
このやり方は戦死者の遺体を5ヶ月間も放置した政策と根本は変わらない。
①埋葬した遺体を掘り返し野晒しにさせる。
②(裁判も行わずでっち上げられたかもしれない)犯人の首を親兄弟、妻子の目の前で斬首。
見せしめに。
薩長政権が行った会津戦後処理の根底には朝敵・賊徒には何をしても構わないという野蛮な思い上がりがある。
その日、忠兵衛は町中で偶然同僚の平八と会った。
そして、忠兵衛の収容先である高安寺に誘い、お茶請けを出した。
平八はお菓子が出てくると期待していたが出て来たものを一口つまみ「なんだ、ただのお浸しじゃねえか」と口にするや「う・こ・ぎ・かぁ!」と感動しおかわりをした。
うこぎ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%AE%E5%B1%9E
雪国育ちの会津者にとってウコギは只の木の芽ではない。
うこぎは味覚を通して春の到来を告げる一方、病人には滋養、疲れた者には元気をもたらす、自然の恵みでもある。
平八は食べさせたい奴がいる、とうこぎを貰って帰って行った。
会津で戦死者の埋葬が開始されると忠兵衛にも詳しい知らせが届くように。
戦死者の遺体取り扱いが乱暴でまるで瓦礫を投げるようだと聞かされ、忠兵衛は憤りと悔しさで自分を抑える事が出来ない。
しかし、伴百悦がー遺体の取り扱いをもっと丁寧にーとその監督に立ち上がったと聞かされ、先程の怒りが感動に変わって深い安堵感に包まれた。
忠兵衛は塩川収容所で伴百悦と寝起きを共にした事がある。
伴は一途な性格で事に臨んで保身を考えたことが無い。
忠兵衛はその頃から伴の高潔な人柄を敬愛するように。
越後高田脱走
忠兵衛は日々安穏としている自分が嫌になり会津へ行く事に。
暗闇を歩いていると平八が声を掛けてきた。
平八にだけは脱走を打ち明けている。
平八から最近脱走者が出て刃傷沙汰になってから見張りが厳しいと忠告された。
そして、この前のうこぎのお蔭で元気になった、と言いながら炒り米を渡された。
非常食だ。
水原の知り合いの豆腐屋に泊めて貰う事は叶わなかったので、次は津川を目指しながら野宿。
今日はここまで。
11時半から昼食作り。
夫はそうめんを希望。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
15時から夕食作り。
今日は久しぶりに5人が家で夕食を食べる。
いつもより品数を多く作る事に。
17時過ぎにほぼ完成。
そこへ、実家の母からの荷物が届いた。
おかずが一杯入っていた。
早速テーブルに並べた。

ご飯、なめこの味噌汁、枝豆、鶏手羽元の味醂粕漬、人参とたらこの炒め煮、梨、茄子の古漬け、キュウリの漬物、お弁当のおかずの残り、練り込み、オクラ、塩サバ、甘い御赤飯、蛸と帆立のカルパッチョ、インゲンの胡麻和え、ウォッカ梅酒ロック、
夫と長女と3人で18時半から夕食。
19時過ぎには次男も帰宅。
早速食べていた。
長男はまだ帰ってこない。
後片付けを済ませたら、営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は6666。
充実した1日だった。