arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1440日目と畑と「きずなつけ」④

2025/8/18月曜日

5時に起床し5時50分に畑へ。

昨日に引き続き、害虫達が出迎えてくれた。

【閲覧注意】

撮るの難しかった。

水遣りをしてから帰路に。

7時15分に帰宅後、シャワーと洗濯。

8時50分に買い物へ。

10時過ぎに帰宅後、食材を収納。

10時半から読書と調べ物。

昨日に引き続き鈴木忠昭著「きずなつけ」

 


しかし現場には改葬を聞き付けて集まった遺族や知人が身内の遺体を探し求めて立ち会っていた。

哀れなのは婦女子が父や夫の名を呼びながら遺体を一つ一つ尋ね歩く様子である。
誰彼の見分けは付かないがじっとしては居られない。

5、6歳の男子の手を引いた中年の女性が「この中にお前の父上が居るはずだ。目を背けるでねぇ、しっかり見ろ」と言った。

ここで1つ問題が。
遺体収容のやり方が立ち合っている者には堪えられない程、乱暴な事である。

まるでごみを回収してそれを始末しているように見えて仕方が無い。

確かに遺体は人間の形を保っては居ない。
↑何故かと言うと、遺族はすぐにでも埋葬したかったが、薩長政権が「死体野晒し令」を発令。

見せしめに遺体を晒すんだと。

どんな文化だよ。

日本の文化じゃねーよ。


しかし、集まった遺族や知人にとっては身内の変わり果てた無念の姿である。例え骨の一片であろうとも、粗末に扱われる事は我が身を切られる思いがして我慢が出来ない。

この埋葬には会津側の不満だけではなく作業を請け負った側にも一日も早く引き揚げてしまいたい情況があった。
5ヶ月間も放置された遺体は腐乱していて手が付けられない。

その上、この困難な仕事に対するお上からの報酬は僅か。

嫌な仕事は早く済ませて帰りたい、が作業員の本音。

遺体を丁寧に扱う事など考えても居ない。
遺体の収容が終わると後は墓地へ搬送する事になるが、当時は遺体を運ぶ荷車が不足。

仕方無く遺体を筵に包んだり、叺に詰めたりしてそれを荒縄で縛り付け引き摺って運んだ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%BA

 

この時の遺体の取り扱いの様子が余りにも異様でその衝撃が会津人を深く傷付け、その傷跡は後々まで癒える事が無かった。

その後、五十年が経った或る日、当時の傷の深さを証明するような野辺の送りがあった。
それは大正十二年(1923)84歳の生涯を閉じた町野主水の葬列である。
町野の遺体は筵に包まれ荒縄で縛り付けられて馬に繋がれていた。
町野は融通寺へ向かう路上を馬に引き摺られて人目に晒されたのである。
この変わった葬送のやり方は、戊辰戦争の埋葬を再現したもので、町野が生前、家族に厳命した遺言である。
町野は死ぬまで同志の惨めな弔いを忘れる事が無かった。
自分だけがぬくぬくと畳の上で死んで、人々の肩に担がれて墓に入る、そういう葬送を許さなかったのである。
↑町野主水、天晴!
言っとくけど町野主水は少なくとも室町時代から続く名家やで。

蒲生氏郷の家臣で会津に来て、一度は帰農したものの、町野家が名家と知った保科家に請われ松平家に仕えることになったんやで。

町野主水は300石を拝領する上士やったんよ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E9%87%8E%E4%B8%BB%E6%B0%B4


町野家は勿論会津藩上士の家柄やで。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/byakko12.htm

 

戦没者埋葬の話は、遺体取り扱いを巡って不満が募っていた。
「墓穴にどさーっもほうりこんでよ、石ころ同然だ」
「同志の死を踏み躙る仕業よ」

「あれじゃ死人も成仏できねぇ」
会津のこの悲痛な叫びを何処に持ち込めば?
仮に会津側の不満と要望が作業員に伝えられても無視されるのが目に見えている。
会津側が作業員に命令する関係に無い。
会津も作業員もお互い何ら関係が無いのである。
ところが会津藩の中で唯一、作業員と接触を保ってきた人物が居た。
残留組の伴百悦である。
会津側の思いを作業員に伝えられるのは伴以外に居ない。
伴はこの役目を快く引き受け早速親しくしている作業員の頭の意見を聞いた。
「この仕事ではけちな手当しか貰っていねぇ。わしらは早く終わらせたくて浮き足立っている。協力を頼むからには手当てを弾むしかあるめぇ」
「して、どれほどの金を……」
「千両」
金集めは伴と町野、高津らが加わって奔走した結果、漸く工面した。
ところが、更なる難題が。
作業員は各地方からグループ別に集まっている。
グループの長である頭の数も多い。
その頭から末端の作業員一人一人に金が手渡される保証はないというのである。
↑まぁ、今も中抜き業者がごっそり持って行くからの。
中抜きて能力の無い者が金を得る最善の方法だからの。
折角の大金も目的が叶えられなければ意味が無い。
会津側が埋葬に携わる作業員にー遺体をもっと丁寧にーと言葉を掛けて、金を直接手渡す以外、効果が無い事が明らかに。
情況は切迫している。
一刻も早く会津の誰かが埋葬作業の現場に立ち合って彼等と行動を共にしなければならない。
事態を耳にした残留藩士は誰もが気後れし押し黙った。

「なぁーに、心配ご無用。殉難者の弔いはわしに任せて貰いたい。自分の骨を拾うつもりでやるまでよ」

伴が言った。

 

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫には冷やし中華を調理。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

16時から夕食作り。

 

ラタトゥイユジャーマンポテト、サラダ、ご飯、卵焼き、お弁当のおかず達、ウォッカ梅酒ロック。

お弁当のおかずは長男用。

18時半に夫と夕食。

後片付けを゙済ませたら営業終了。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は10379。

充実した一日だった。