arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1439日目と「きずなつけ」③

2025/8/17日曜日

5時に起床。

5時半に畑へ。

 

雨が降ったにも拘らず作物が元気が無い。

なので、持参した液肥で水遣り。

里芋には害虫がウヨウヨ。

【閲覧注意】

 

合計10匹位駆除した。

この里芋の畝もそうだが、そこら中、緑色の液体が撒かれていた。

 里芋には多めに水遣りをした。

7時に帰宅後、洗濯。

合間に納豆作り。

ヨーグルトメーカーにセットしたら、一段落。

9時から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き鈴木忠昭著「きずなつけ」

 

町野の話は更に続いた。
「あれは、越後口から引き揚げて間もなくの頃よ。忘れもしねぇ、飯寺の近くで敵とぶつかった時だ」
飯寺村は鶴ヶ城の西側、大川の東岸にある。
田んぼの真中に大きな農家があってそこを根城に敵が陣地を築いていた。
町野の部隊が攻撃を開始すると敵は呆気なく逃亡。

気が付くと前方に無数の敵が。

西軍の大部隊である。
町野は撤退を決め今来た道を引き返す事に。
後ろを振り向くと一軒家の農家が火焔に包まれている。
先程蹴散らした敵の残兵が火を付けた。
退路はここしかない。
燃える農家を避けるためには田圃の中を通過する。
が、田圃の土手には敵の残兵らが町野らを待ち構え狙い撃ちを企んでいた。
町野が途方に暮れていたその時、燃え上がる農家に向かって忠兵衛が歩き出した。
家屋の中央部は特に火勢が強い。

一番火焔が激しい所に忠兵衛が立つと炎が見る見る勢いを失っていく。
そこには、かつて見覚えのある、黒い影が仁王様のように立っていた。
その影の部分だけは火炎の気が全くない。奥の方まで黒い空間が洞窟のように伸びている。

味方の驚きが喚声に変わると隊員は黒いトンネルの中を全速で走り抜けた。
「まさに奇跡を見る思いがしてな」
と言いながら町野は盃に手を伸ばした。
そして呟いた。
「あの時も忠兵衛がバンタと叫ぶ声を聞いたような気がする」と。


会津藩士雑賀忠兵衛らの一行は雪の越後街道を西へ西へと移動。
先ず、会津藩領の津川を経由し加茂、三条を経て日本海沿岸の出雲崎へ。

更に海岸線を柏崎、柿崎と進み13日間掛けて越後高田に到着した。
忠兵衛が経験した北越戦争で忘れようにも忘れられない辛い事件がある。
慶応四年(1868)5/24, 忠兵衛らの朱雀四番士中隊は三条の南、見附から東へ四キロ入った杉沢村に宿営。
その日は早朝から杉沢村に西軍の砲撃が加えられた。
敵が侵攻を開始する合図である。
西軍は薩摩軍(参謀黒田了介、後の清隆)と長州軍(参謀山県狂介、後の有朋)が主力。
それに金沢兵、松代兵、高田兵が加わった連合軍。
会津側は佐川官兵衛率いる精鋭部隊、朱雀四番士中隊を中心に長岡兵、村松兵が参加した列藩同盟軍(総督河井継之助)である。
この時期は梅雨で朝から雨。

旧式銃が多い同盟軍にとって雨ほど怖いものはない。
一部の火縄銃などは火薬が湿って使い物にならなくなっている。
西軍は雨に影響されない元込めライフル銃を使用。
東軍と西軍の勝敗を決めたのは兵器の差にあったと指摘されている。
両軍は見附で激突。
最初に矢面に立たされたのは朱雀四番士中隊の二番小隊(小隊頭、多賀谷勝之進)
この小隊には川原信継が配属されていた。
忠兵衛は一番小隊。
川原とは距離を置いて守備。
川原の小隊は早くも西軍の掃射を浴びる事になるが田圃に出張って防戦していた為隠れ場所が無い。
忠兵衛らの一番小隊は栃尾寄りに散開。
が、隊長の佐川が、二番小隊が危ない、と言い放つと割れるような大声で「突貫!」と怒鳴った。

 忠兵衛らはその声に弾き飛ばされるように銃撃音が激しく聞こえる方へ向かった。
朝からの雨は降り止むどころか風が加わって激しい暴風雨に。この悪天候のおかげで暫くの間両軍の砲声が止んだ。
この日、朱雀四番士中隊では二番小隊から死傷者が出た。
川原だった。
川原は生前仲違いとなった弟誠兵衛ともう一度仲直りするまでは死んでも死にきれないと言っていた。
忠兵衛は川原が身に付けていた赤い房のお守りを目で探した。
房は汚れで色を失っていた。
忠兵衛は訣別の黙礼をすると脇差を抜いて川原の髻を掴んで束髪を一気に掻き切った。
会津藩・朱雀四番士中隊二番小隊・川原信継・享年二十歳。


会津地方に春が訪れ雪解けが始まると今まで雪に覆われていた遺体が次々に現れそこから耐え難い腐臭が漂い始めた。
当然ではあるが住民から苦情が出る。
その上、腐肉を漁る野良犬やカラスも動き出した。
占領軍はそれらの遺体を小田山麓と城西の川原を墓所に決定。
小田山下と薬師堂川原は昔から罪人塚と決まっていて知らない者は居ない。
「久保村の野郎、ふざけた真似をしやがって、こうなったら、奴をぶった斬ってやるわ」
高津仲三郎はかつて松平容保直属の精鋭部隊、別選組に選ばれた剛の者。

気性が激しい上に刀槍には自信がある。
「高津、落ち着け、こらえろ!」
町野は高津を抑えつけるように座らせた。
ここで高津が暴発したら折角の埋葬運動も水の泡。
久保村の評判は頗る悪い。
寺に埋葬した白虎隊の遺体を掘り返して元の場所に捨て置け、と言い放ったのも久保村である。
久保村文四郎。
彼の肩書は民政局監察方兼断獄筆頭頭取、と長い。
今でいう警察官・検察官・裁判官の権限を併せ持った絶対権力者であった。
久保村の出身地は越前。
藩主の松平春嶽会津の容保を口説き落として京都守護職に引き摺り込んだ張本人。
会津の味方である筈の越前藩が一転して薩長の手先になった。
久保村は勝利者となって会津に進駐。
彼は要職に就くと強い者にはへつらい、弱い者を痛め付けて薩長政権に尻尾を振る。
久保村は再三に渡り町野らの訪問を受けているが埋葬の訴え事は尽く跳ね除けてきた。
久保村の横暴は埋葬問題に限った話では無かった。
事件に関わった者をろくに取り調べる事なく抹殺した。
伴は「久保村に掛け合っても無駄じゃ」と口を開いた。
町野も「わしもそう思っとる。明日は軍務局に直談判だ。それが駄目なら奴らを斬って死ぬまでよ。なあ高津」
当時、軍務局は大町融通寺に設けられていた。
融通寺は町野家代々の菩提寺
町野らの交渉相手は軍務局参謀三宮義胤、26歳。
彼は近江の出身で生家は真宗正源寺。

住職の息子である。
町野は三宮に頭を下げたままの姿勢で訴え事を口にした。
「この度指示された遺体埋葬の場所に異議がありやす。墓所は罪人塚ではなく、然るべき寺院に変更されたい。お願い申す」
町野の態度はこれが敗者の態度かと疑いたくなるほど堂々としている。
彼等をそうさせる精神的な支えがあるとすればそれは会津武士は犯罪者ではないという、確固たる信念と誇りであろう。
町野が言い終わると2人は頭を上げた。

三宮はその顔を見てハッとさせられる。
町野と高津の目の色が尋常では無い。
この嘆願に覚悟して臨んでいる事を見抜いた。
「検討の上、早急に返事を遣わす」と返答し軍務局参謀の威厳を保った。
三宮義胤は正義感が強い。
その頃東京から引っ切り無しに入ってくる政府高官の汚職や賄賂事件に不快感を顕に。
「これが維新を担うお偉いさんのやることか」
勝者の奢りと言うべきか、功成り名遂げた者の中には国事を蔑ろにして自分事に熱中する輩が目立つようになった。
ある者は金力にものを言わせて多くの女性を囲い、男の甲斐性と言って憚らない。
また、ある大物は人生の目標を見失ってか、賄賂で得た金の使い道を豪華な別荘作りに費やした。

会津藩戦没者の埋葬が開始されたのは明治二年(1869)2/24。
「戦死者の墓所を七日町の阿弥陀寺と西名子屋町の長命寺とする」
三宮の英断である。
遺体の埋葬が始まったという報せに会津の人々は胸を膨らませた。
が、現実は厳しかった。
遺体を改葬するまでの手順は先ず

①遺体の収容

②墓地への搬送

③本埋葬

となるがその一つ一つに困難がつきまとった。
遺体は野晒しの他に仮埋葬されたものがあった。
仮埋葬というのは大きな穴を掘ってその中に死者を横たえ上から土で覆った。
遺体を収容する為にその穴を掘り返し穴の中から拾い上げなければならない、!
遺体の着衣は既に腐り模様も見えない。
痛みが酷く持ち上げると胴体から手足がボロボロと脱げ落ちる。
特に悪臭が強烈で収容に関わった者は一様に嘔吐を繰り返した。
↑死体野晒し令を発令した薩長政権が一番悪い(!!)

今日はここまで。

 

11時半に昨夜以来の食事。

今日はテニスコートが空き次第テニスをやる。

12時にご近所テニスへ行っていた夫が帰宅。

ペペロンチーノを゙調理した。

13時からファミリーテニス

長女と次男と3人で練習。

アップが済んだらシングルスの3ゲーム先取のゲームを開始。

長女対次男の試合中に長男も到来。

4人でダブルスをやる事に。

初戦は長女・次男ペア対わい・長男ペアで対戦。

圧勝してのでチーム替え。

男ダブ対女ダブで対戦。

3-1で男ダブペアが勝利。

長男の身体能力が高かった。

帰宅後、順番にシャワー。

14時45分に長女を駅まで送迎。

お盆休みを゙満喫して帰った。

17時から夕食作り。

卵焼き、鮭、味噌汁、ご飯、サラダ、砂肝串、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒。

これから夫と長男と一緒に食べる事に。

 

歩数計は12483。

楽しいお盆休みだった。