2025/8/16土曜日
4時半に起床し5時に畑へ。

水遣りをし、赤紫蘇等を収穫してから帰宅。

茄子は千葉の叔父から大量に届いた。
2.2kg分は古漬けにした。
そして、赤紫蘇でジュース作り。
300gの赤紫蘇で3リットル分作った。
やる事やったら、10時から読書と調べ物。
昨日に引き続き鈴木忠昭著「きずなつけ」
忠兵衛は気落ちしたのかその頃から情緒不安定に。
娘の希世はばさまの道連れになったに違いない。
「希世を返せ!」と怒鳴ったり情緒不安定に。
ある日、伴から呼び出された。
すると、「たった今、裏から入った話だが、忠兵衛、喜べ!吉報じゃ」
伴の話によると、希世は家僕の才吉に背負われ会津若松を脱出。
才吉の実家、坂下に匿われ、開城後は母親のまきと再会が叶えられた。
今は親子共に才吉の所に厄介になっている、というのである。
会津坂下は会津盆地の西側、会津若松から新潟県へ通じる越後街道沿いにある。
忠兵衛は密かに坂下を訪問する事に。
才吉の実家は農家で決して裕福とは言えない。
母屋には寝たきりの老母と兄夫婦、子供三人が寝泊りしていた。
余所者を泊める部屋の余裕など無いはずなのに、才吉はまきと希世を客人扱いで大切に匿った。
西軍が城下に侵攻して来たあの日、希世は才吉に背負われて若松を脱出。
才吉の冷静な判断で明るいうちは敵の目から逃れる為に町外れの物置小屋に身を潜めた。
夜を待って、暗闇の中を蛙のように這いながら敵陣を潜り抜け命からがら坂下の実家に転がり込んだ。
↑才吉素晴らしい!
よく、自刃からも救い、西軍からも守って若松を抜け出た!ようやった。
ファインプレーや!
その夜、まきは洗い物を済ませ手持ち無沙汰にしていた。
味噌小屋の中には火鉢の炭火だけが赤い炎を見せている。
まきは蔵の外に人の気配を感じた。
本能的に希世を抱き寄せ懐剣を探し当てた。
希世は母親のただならぬ様子にすっかり怯え切っている。
扉の外から「おらぁ才吉だぁ」続いて「まき、俺だ。忠兵衛だ。」
希世が忠兵衛の両腕の中に収まると「父上は希世よりお城の方が好きなんだべ」と恨み言を言って周りを笑わせた。
忠兵衛が「才吉、中へ入ってくれ、この度の恩義、何度頭を下げても済まされるもんじゃねぇ」
と忠兵衛が部屋に上がる事を勧めた。
が、才吉はやっと対面が叶った親子三人水入らずの間に他人が入る余地などある訳が無い。
長居は野暮とばかりに去った。
希世が安心して寝入ったあと、まきは今までにあった事を報告。
まずは、ばさまの自刃。
ばさまと一緒にあの世へ行く筈であった希世は才吉の機転と必死の脱出で助かった事。
ばさまは仮埋葬された事。
弟の誠兵衛の事は忠兵衛が、遺体は城に移されて埋葬された、と教えた。
じさまは会津高田の江花家に居る事も判明。
そして、忠兵衛はまきに伴殿の手伝いをしている事を打ち明けた。
同志の遺体を埋葬する事。
それが、終わるまでは堪えてくれ、と。
明治二年(1869)正月、明治政府は会津藩士総数4600余名を遠隔地の収容所へ送り込む事に。
薩長政権は会津の地に4千人もの会津武士が存在する事自体不安で堪らない。
いつの日か会津が徒党を組んで反逆に出るかもしれない。
二度と再び立ち上がれないように会津の弱体化を謀る為になるべく遠い所へ、しかも分散させる事が望ましい。
猪苗代に謹慎中の2千9百余名は東京へ。
雑賀忠兵衛ら塩川組1千7百名は越後の高田藩へ、とお預けが決まった。
忠兵衛は第一陣として正月五日に出発。
会津坂下に一泊してから山越え。
雪中行軍である。
監視護送役は米沢藩兵。
沿道には会津藩の婦人子供であろう見送りの人々が。
その時、まきの姿を見つけた。
ここよと言わんばかりに手を振っている。近寄るとまきは頭から被っていた肩掛けをパーっと外した。
その中から希世の丸い顔がぽっかり現れる。
この手際の見事さは如何なる奇術師も及ばないであろう。
会津藩士の大半が東京と越後高田へ移送された際、占領軍の命令で会津若松に20名が残された。
占領軍は会津の戦後処理の為、軍務局と民政局を設けたが、会津残留組は彼等の補佐役として採用された。
占領軍は会津藩士の逃亡や潜伏に手を焼いた。
そこで、地元の事情通である会津藩士を仲間内の説得、話し合いに任せようと起用。
会津残留組は若松の北側、滝沢村に仮住まいした。
伴は町野主水、高津仲三郎らと囲炉裏を囲みながら酒を呑んでいた。
そこで、伴は忠兵衛の話を始めた。
町野は北越戦で朱雀四番士中隊の隊長だった佐川官兵衛が軍事奉行として会津若松に召還されると、替わって隊長に就任。
忠兵衛達の隊長になった。
隊長の町野から見た忠兵衛の評価は並。
刀槍の技術が特に優れている訳では無い。
射撃の腕前は弟誠兵衛に遠く及ばない。
が、希に見る強運の持ち主である事は認めざるを得ない。
不思議な力が忠兵衛を支えている、と。
慶応四年(1868)7/29, 越後長岡城は西軍の攻撃を受け再び陥落。
一度は長岡藩家老河井継之助、必死の奪還作戦で回復したが、この日遂に「長岡の二番破れ」となった。
河井継之助が重傷を負い戦線離脱するとそれは同盟軍の結束に影響。
米沢兵が越後の戦場を見捨て(←これは新発田藩の裏切りで退路と補給路を塞がれた為)国許へ帰還。
仙台兵も総退却を決め越後から姿を消した。
兵力の差は西軍三に対し会津一。
8月に入って間もなく越後で戦っていた忠兵衛達は津川の西北、宝珠山(標高564m)と阿賀野川に挟まれた蒲原郡小松村に引き揚げてきた。
小松村は山裾が阿賀野川の河岸まで迫っていて平地が少ない。
道路の山側は険しい崖、反対の川側は激流。
船でしか渡る事叶わず。天然の要害地である。
8/11(笑)西軍が攻撃を仕掛けてきた。
迎え撃つ会津軍防衛諸隊の中には町野隊長率いる朱雀四番士中隊も含まれた。
西軍は宝珠山に連なる高地から狙い撃ちする作戦に出た。
山地戦で有利に立つには敵よりも高い所、高地を確保し、常に高い位置から敵を攻撃する。
宝珠山の頂上を占領。
西軍の正面攻撃に屈する事が無かった会津軍が高地からの側面攻撃に脆かった。
崩壊は山側の右翼隊から始まっていた。
それに、気づいた町野は右翼を支える行動に。
「山だ!わしに続け!」と山側の土塁を攀じ登った瞬間、正面の敵から狙撃を受ける。
その時町野の足を思いっ切り引っ張り、引き戻し、助けたのは忠兵衛。
そして、隊長に先んじ土塁を乗り越えて行った。
会津軍は刀を交える白兵戦になると俄然強い。
西軍は剣付き鉄砲を槍のように構えて突進してきたが忠兵衛らの刀に躱されて斬りつけられると後退。
忠兵衛らは勝ちに乗って西軍を追撃。
町野は深追いを恐れ「退け!退け!」と命令するも忠兵衛らの耳には入らない。
すると、山の中腹に隠れていた後続部隊が現れ一斉射撃。
町野は撤退の合図である鉦を力一杯叩いていた。
忠兵衛らは激しい銃撃に晒され次々に倒されていく。その光景を目の当たりにした町野には目を覆いたくなる悪夢だった。
町野は続けた。
「あの戦でわしは忠兵衛達を引き戻そうと思っていた。そして、味方に援護射撃を命じた。暫くすると煙幕の中から人影が。それが、忠兵衛だった。」
この話を聞いていた者は「まぐれとはこの事よ」
と結論付けた。
が、町野は「いや、まぐれなんかじゃねえ。わしの目の前で敵は忠兵衛にもう一度銃撃を加えてきた。今度こそ終わりかと観念したが、全く想像もしてねぇことが起こってな。」
「黒い影がひょっこり現れると忠兵衛を庇うように敵の前に立ちはだかった。敵の弾はその黒い影に吸い込まれるように命中した。それでも黒い影はしっかりと立ち続けていたが、間もなく耐えきれなく成ってその場にどーっと倒れ込んでしまった………」
「黒い影が人間なのかけだものなのか、わしには今持って判断つかねぇ。ただ1つ気になった事がある。忠兵衛が倒れかかった黒い影に声を掛けたことだ。大声で名前を呼ぶように叫んでいた。わしにはそれがバンタと聞こえたが……」
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫には冷やし中華を゙調理。
子供等は自分達でラーメンを作って食べていた。
15時からファミリーテニス。
今日は長女と次男と。
途中から夫も来たのでタッチ交代で自分は帰宅。
本日2回目のシャワーでさっぱりしたら再び読書と調べ物。
17時半から夕食作り。

チーズダッカルビ、ローストナッツ、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒。
これに茄子の古漬けもプラス。
ホットプレートで蒸し焼きしている間にビワの葉エキスを作成。
カットしたビワの葉と焼酎を瓶に入れて混ぜるだけ。
3ヶ月後に出来上がるそうだ。
蕁麻疹等に効くようなので作ってみた。
夕食には長男も参加。
この1ヶ月間、育休を取り、子育てと家事を頑張り嫁をサポート。
遊びに出掛けた次男以外のメンバーで、呑んで食べて慰労した。
後片付けは長女がやってくれた。
更にスイカのデザートも出て来た。
お腹一杯になったら、暫し家族団欒。
幸せな一時を過ごした。
読書と調べ物をしてから寝ることに。
歩数計は11411。
充実した一日だった。