2025/8/14木曜日
4時半に起床。
5時に畑へ。

水やりを゙していると地面にひび割れが生じているのに気が付く。
一通り水遣りしてから帰路に。
6時に帰宅後、シャワーと調べ物。
8時半に買い物へ。
10時半に帰宅後、読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争」
良順にとって憂慮されたのは軍医や村々の医師に治療の知識が乏しい事。
↑鉛弾の鉛毒については誰も知らんわな。
良順は日新館に地元の医者達を集めて講義。
患者には牛肉を与えて栄養を付けさせた。
会津国境に敵が迫るにつれ医薬品が一切入手出来なくなり軟膏すら無くなる始末。
そうした中での手術は危険だが、虎之助を助けるにはそれしか方法は無い。
〈切断大手術〉
八月十二日 松本氏執刀の下に南部医師、その他助手にて大手術も事なく終了せり。その後、経過順調なり。
八月十五日 城主松平容保公並びに御養子若狭守御二方様より、御小姓奥番小野権之丞氏(箱館病院掛けの!)をもって左の口上書の通り、御見舞あり。
このたび戦争の節、奮戦を致し手疵を負い候段、御二方様聞こし召され御案事遊ばされ候にて、御見舞遣わされ候。
右御使者に向かい、父は一首詠みたり。
君のため早片腕と成りしかど 国の行く末如何知られん
この小野権之丞なる人物、容保側近の一人だがこの頃輪王寺宮を伴って仙台領白石におり、御小姓組番という肩書きからしても別人であろう。
『慶応年間会津藩士人名録』では御小姓奧番として小室金吾左衛門、安藤監治、黒河内総之助、浅羽忠之助の名前が見える。
↑小野権之丞氏はいつ箱館に行ったんだろうね。
ニ 冥土黄泉への旅
〈惨痛の次第〉
敵軍が滝沢方面に侵攻してくる中、城下から避難する人々の混乱が続く。
城下に警鍾を聞いた平太は父を避難させようと周りに手伝いを頼むも誰一人応じてくれない。
しようがなく自ら背負う事に。
米代一ノ丁まで来たりし折、小銃を構え泥土に肩まで塗したる兵士が手伝いを申し出た。
南町口郭門の手前で別れた。
その後も父を運ぶのを手伝ってくれる人に苦労しながら少しずつ本郷村へ。
途中、人夫が腹が減ったという人夫へ見ず知らずの家(横山家)で御飯を頂き食べさせる。
人夫を促し外へ出ると二十余人が父を囲んでいた。
父によるとこの方達は皆、父の知り合い。
父の話を聞き同情。
本郷村まで運んでくれる事に。
〈溺死数知れず〉
猛火中いっそう火焔の高く天に漲りしは、負傷者の病院にあてありし日新館ならんとの取り沙汰なりしも、果たして病院掛かりの者ども引き払いに際し、日新館全部へ火を放ち焼きたると。
これがため、手足の多少なりとも自由なる者は匐い出だし、或いは膝行出でしも力及ばず自刃し、または御堀へ投身せし死体累々たりと。
そのほか、身体自由ならざる者は皆焼死せ しとは酸鼻に耐えざる次第なり。
平太一行材木町に至れば混雑なる事、避難者の雑鬧、立錐の余地無し。
飯寺村を経て大川の渡船場に至るに連日の霖雨の事とて増水甚だしく、激浪渦巻き、怒涛逆立ち、濁水漲り、悲壮凄惨なり。
当渡し場は渡船僅かに一艘。
避難者は数千人。
この渡船場に船が一隻しか無かった事もお粗末。
また、乗船を待ちかねこの濁流へ飛び入り泳ぎし者数多なり。増水の折なれば溺死せし者数知れず。
平太親子は本郷村の知り合いが舟を漕いでくれた為、何とか無事に渡河。
夕方には本郷村の自宅に到着。
すると親戚や近隣の人々がひっきりなしに訪問。
更に城下からの避難者も多く騒がしい。
母の実家の冑村へ移動することに。
〈虎之助逆上〉
虎之助の病態はこの避難行により悪化。
「敵が来る」とうわ言を繰り返し錯乱状態に。
虎之助が左腕に銃弾を受けたのは8/1。
8/12に切断手術。
8/24の早朝、術後12日目、虎之助は不帰の客に。
享年41歳。
周辺は未だ戦争の余波で避難民で溢れ、農家は何れも家財を運び出すなど騒動一方ならず。
埋葬穴を引き受ける人も居そうもにも無い。
やむを得ず、冑村の母の実家の墓地へ仮埋葬。
平太はその後、病に臥せり、戦場に戻る事は無かった。
〈平太の正義感〉
会津藩が敵の軍門に下ったのは9/20。
降伏交渉に当たったのは京都以来の外交方の手代木直右衛門と秋月悌次郎。
9/22, 北追手門に降参の白旗が立てられた。
平太は隊長だった萱野のもとに駆け付け一緒に塩川町にて謹慎した。
浜崎村、勘次郎という者の方に収容せられたり。
第八章 平太の戦後
一 復興への歩み
〈平太釈放〉
この戦争は本郷の人々にとって大きな痛手に。
越後口の戦死者は虎之助ら六人。
本郷の隣村の川南村からも日光口などで8人の戦死者が出ていた。
加えて、9/9の戦闘で町の大半が焼失。
平太ら多くの人は囚われの身。
残された人々は茫然として途方に暮れる日々だった。
明治二年正月、猪苗代に於いて謹慎中の会津藩士には東京や越後への移動命令が下った。
平太は病が完治しない為、本郷に戻る事が許された。
この時謹慎していた会津藩士は約四千六百人と推定される。
うち千七百四十三人が越後高田へ。
高田組の責任者は家老の上田学太輔で萱野右兵衛が若年寄に昇格して補佐した。
平太が窯業に復帰するのは翌明治三年からで、その間の記録は無い。
〈権兵衛の切腹〉
全藩の責任を負って萱野権兵衛が切腹を遂げた。
平太は義憤を込めて次のように記している。
勝てば官軍ら負ければ賊徒とやら、古諺のごとく巧詐狡狡黠なる彼ら姦邪の策略に陥り、元執政官萱野権兵衛氏には、冤罪を一身に引き受け、主謀の罪に服し、処刑に処せられ、そのほかは容保公及び喜徳公を始め士卒一般の死を尽く赦されたり。
会津藩復興の為に若手を残す事が肝要。
その責任は老人の田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛にあるとされた。
田中と神保は既に戦死。
萱野一人の処刑に。
会津藩は戦争責任者を出す事により陸奥国南部藩の地に斗南藩の再興が許され明治三年四月から移住。
萱野右兵衛は移住責任者の一人になり、越後高田から会津若松に戻りその作業に。
〈本郷に賭ける〉
平太らは1年ぶりに萱野に会い再会を祝した。
平太も希望すれば陸奥国に移住が可能だった。
が、本郷に留まり焼き物の里の復興に賭ける決心を固めた。
平太は陶工加藤平八に弟子入りし本格的に窯業を学ぶ一方、若松県に資金の貸与を願い出て産地の復興に取り組んで行く。
平太は明治十四年、本郷村村会議員選挙に立候補し当選。
村長への道を歩むことに。
〈萱野車〉
本郷の人々が熱心に勧誘した結果であろうか、萱野は斗南藩には行かず本郷の地を第二の人生の場所に選んだ。
萱野は御用地堰水路の一隅に陶土原石の粉砕水車を作って採石業に従事。
平太が毎日ここに顔を出し採石業を手伝った。
地元の人々も「萱野車」と呼んで親しく付き合った。
しかし、明治五年五月十九日、萱野が死去。
享年33歳。
〈萱野隊記念碑〉
平太は生き残った仲間と共に募金活動を続け明治二十七年八月、戊辰戦争戦死者6人の二十七回忌に当り、観音山の麓に高さ2メートルの「死節碑」を建立。
15歳だった平太は41歳になっていた。
大正五年(1916)本郷に大火発生。
観音山の麓も類焼。
「死節碑」も灰燼に埋もれた。
↑悪魔が嫉妬したな。
本郷村長を歴任した平太は早速「死節碑」の復興に乗り出し翌大正6年の四十九回忌に当り「死節碑」を観音山の頂上に移し、合わせて念願の「萱野隊長之碑」を新たに建立。
平太は64歳になっていた。
「萱野隊長之碑」の前に佇みじっと瞑想に耽っている平太の姿を何人もの人が目撃している。
↑どんだけ隊長好きやねん(泣)
ずっと時代が下って昭和三十二年(1957)9/24に行われた「戊辰戦争90年祭」には萱野隊士柏村善平の孫柏村毅、当時東京急行電鉄専務が「明治戊辰戦役萱野隊記念碑」を寄進。
観音山には三つの記念碑が並んで建った。
この物語の主人公、遠藤平太が亡くなったのはその27年前の昭和五年七月八日。
享年78歳。
↑1967年生まれのわいが生まれた年は戊辰戦争役100年祭だったのな。
今日はここまで。
12時から昼食作り。
夫と長女に冷や麦を用意。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
14時から長女とテニス。
めっちゃ暑かった。
こまめに給水しながら一時間テニスを楽しんだ。
帰宅後、2回目のシャワー。
スッキリしたら、読書と調べ物。
17時から夕食作り。

ご飯、味噌汁、とうもろこし、枝豆、海老と春雨のニョクマムサラダ、宇都宮餃子。

餃子は長女のお土産。
自ら焼いてくれた。
3人でモリモリ食べあっという間に完食。
お皿は長女が洗ってくれた。
有り難く読書と調べ物をする事に。
歩数計は15868。
充実した一日だった。