2025/8/13 水曜日
4時半に覚醒。
最新情報をチェック。
昨日の指の切り傷が広がったら困るので畑へ行くのはお休み。
6時から洗濯と皆の朝食作り。
9時半から読書と調べ物。
二 阿鼻叫喚
〈清水七郎隊〉
平太はこの時、父と同室の渡部某から赤坂山での清水七郎隊の全滅の模様も聞くことが出来た。
渡部氏は清水七郎の部下にて、赤坂山の南端なる城趾を警備しおりたるに、ここは東は聳立せる断岩にて、南は鑿穿せしごとき岩石屹立し、阿賀野川に臨み、西北より敵の猛撃に対抗し、清水氏には四方を駆け巡り、阿鼻叫喚、声を嗄らして指揮するといえども、窮地に陥りしことなれば、悲壮にも清水氏はじめ二十四人、枕を並べて全滅せしこそ無惨なり。
↑確か順動丸の乗組員達。
新潟での、この赤坂山の戦いの事は知られていない。
こんな、壮絶な戦いがあったんよ。

https://rekisi1961.livedoor.blog/archives/2760733.html
哀悼。
同隊中なりし渡部氏には辛くも東方に聳立せる断岩を馳せ下り、葦谷地に身を潜んで四方の様子を窺い見るに、草水村には敵兵充満せしと思い、躊躇して捕らえられ、憂き目を見んよりは死するにしかずと心を定め、太刀引き抜き咽喉を突きたるに手元狂いて左の耳下へ貫きたり。
時に弾丸飛び来たりて右の二の腕を骨に掛けて貫通しければ、持ちおりたる太刀取り落とし、右手の自由を失いたれば、左手にて小刀を抜き、また喉を突き刺したるもこれまた手元狂いて右の耳下貫きし。
また銃丸に左手の二の腕を貫通せしかば、小刀も取り落とし、両手の自由を失えしことなれば、死するに術なく困りおりたる折、草水村の道路を味方覚えある者通行するを認めたれば俄に葦谷地より駆け出でて味方に追いつき、援助せられたりとて、大小とも鞘のみ持ち来たりしなり。
その翌日、河沼郡塔寺村(会津坂下町)より親族の人迎えとして来たれば同氏には津川町を出立せり。
渡部某のその後の消息は書かれていない。
〈親子共に不眠〉
平太の父、虎之助の負傷は二の腕からの切断を要した。
津川では大手術は出来ないので若松城下に向かうことに。
八月八日 津川町を出発。父には吊台に乗せ自らは徒歩にて付き添い出立。しかるに村松藩陥落の為、同藩士の家族及び同城下の市民ら若松城下を差して避難中の折なれば、各駅共に混雑なる事言語に絶えたり。人夫の欠乏の為、各駅にて非常の時間を費やし、この日僅か三里にて野尻駅(耶麻郡西会津町)にて一泊す。
八月九日 同所出立、野沢駅に至りしところ、城主容保公には当地まで出陣の折なれば、御側医に父の手当を申し入れに、速やかに手当を施したる。
漢方医のこと、傷所洗浄するに焼酎を加えたるがゆえ、大いに苦痛を感じ、大いに困難なりしも、途中の事とて施す術なく、この日、片門村(会津坂下町)へ宿泊せしに傷所大いに痛み、親子共に安眠することあたわず。
加うるに村落のことゆえ医者はなし、困苦の裡に夜は明けたり。
〈西洋医松本良順〉
八月十日、片門村を出立し、夕景の頃、若松城下に到着。
すぐに藩校日新館に設けられた軍事病院に入院。
直ちに松本良順の治療を受けた。
左手は二の腕から切断しなければ治療の道はないとのことで切断大手術を施すことに。
良順は天保三年(1832)佐倉の順天堂の創設者佐藤泰然の第二子として江戸に生まれ長ずるに幕府医官松本良甫の養子になり、長崎に留学。西洋医ポンペに師事し5年間近代医学を学んだ。
その後、江戸に戻り緒方洪庵の元で幕府医学所副頭取を務め、洪庵の急死で頭取に就任。
医学の近代化に取り組もうとする最中に幕府が倒壊。
緒方洪庵は晩年幕府に招かれ江戸に出て法眼に叙されている。
良順の自伝『蘭疇自伝』を読むと、会津に来るきっかけは薩長の天下に釈然としない幕臣としての自尊心にあったことが知られる。
「海陸軍人中親友の脱走する者頗る多きを以て、これを棄つるに忍びず、走って生死をともにせんと欲す。思うに、脱走士の集住する所は会津ならん」と、渡辺洪基、名倉知文、三浦煥、小泉順英、山内徳三郎らの弟子と従僕二人に行李を担がせ、いったん佐倉に行き、そこで門人の一人でやはり長崎で医学を学んだ南部精一にばったり会った。
常陸の平潟行きの便船に乗って平潟入り。
そこから徒歩で白河間道経由で会津へ。
文中の海陸軍人は榎本武揚や大鳥圭介のことである。
良順の性格は豪放で同行の者に一人五十両ずつ渡し深川で娼楼に遊んだ。
↑え!?何かガッカリ感が半端ないのだが。
会津に入るや弟子達を連れて東山温泉に直行。
酒を命じ、妓を聘し、高歌放吟、大いに連日の労を慰めた。
↑豪商かよ!
松平容保は良順の来会を大いに喜び病院長の待遇で負傷者の治療を任せた。
↑平太の父は銃弾の鉛毒から壊死が広がったか。
松本良順は西洋医学に通じ銃弾の摘出手術に慣れている。
会津若松では藩内の医師を集め、銃弾の摘出方法を実際の受傷者を治療しながら説明。
見学の医師達は使用している器具等を手に取り必死に筆写したそうだ。
外国製だからなかなか手に入らない器具だからの。
平太の父も、河井継之助も受傷直後に良順先生から摘出手術を受ければ或いは助かったかも。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
納豆ご飯と味噌汁、目玉焼きでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
15時半から夕食作り。
17時に長男と孫達がスープとゼリーを受け取りに来た。
19時に夕食。

サルサ、タコミート、タコシェル、レタス&ゴーヤ&ピーマン、チーズ、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒。
長女もお盆休みで帰省。
3人でモリモリ食べた。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物をする事に。
歩数計は3755。
充実した一日だった。