arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1434日目と畑と平太の戊辰戦争㉑

2025/8/12火曜日

4時に起床し4時50分に畑へ。

昨日一杯雨が降ったかと思いきや、支柱が全然刺せない。

ひび割れている箇所も多数。

水遣りをする事に。

7時に帰宅後、シャワーと洗濯。

合間にベランダガーデニングの水遣り。

そして、赤紫蘇ジュース作り。

今回は赤紫蘇400g, 氷砂糖400g, 酢300gで作成した。

 

9時半に買い物へ。

帰宅後、買ってきた食材を仕分け。

気が付くと11時半。

そのまま昼食作り。

夫には冷やし中華を作成。

自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。

夕食の下ごしらえをしてから13時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き星亮一著「平太の戊辰戦争

 


第六章 会津国境の戦い
一 津川の商人
〈生死計りがたし〉
平太は8/3、隊長の萱野氏の負傷の経過如何を見回りの為、同氏の宿所を訪れ、医師達にも面会。

そこで、以前平太の父を治療した医師から父親の負傷は生死に関わるほど重傷で、それを置いて戦場に戻るとは!と驚かれた。それを聞いていた萱野氏から父親の看病に行く事を命じられ、直ちに津川へ出立。
途中、会津若松経由で米沢に避難する藩主一行と遭遇。
岩谷の渡船場から矢沢の渡船場へ。
ここから阿賀野川を引船にて引き登る。
乗船まで時間が掛かるので、山道を行く事に。

道険しく急坂にして滑る事はなばたしき。しかれども、村松城陥落より同藩士の老幼婦女子ら、老を援け、幼を慰め、この難路を辿り行く惨状は憫然なる次第なり。

一里余りにわたる急坂を攀じ登り、駆け下り、ようやくにして津川町到着したり。


と、険悪な山道と避難する村松藩士の家族らの様子について記している。

村松藩は当初から藩内が二つに分かれ、近藤安五郎、水野但見ら反主流派は密かに薩長軍に通じ、前藩主の異母弟奥田貞次郎を擁立。
暴れん坊将軍みたいな展開やな。

 

分派行動をとっていたが藩主堀直賀を抱く家老堀右衛門三郎は列藩同盟と運命を共にする決意で臨み8/3には五泉方面から攻め寄せた敵と戦ったが落城。

城下も焼かれ落ち延びてきた。
津川町で父親を探すも見つからず途方に暮れているとかつて父が面倒を見た津川の商人に遭遇。
彼から、父は吉川屋万次郎宅で療養していると聞いた。

早速尋ねると父は居室で元気そうにしていた。

そして、津川の商人は何度も見舞いに来てくれていた、と教えてくれた。

ええ話や。


〈遭難の模様〉
平太は虎之助に遭難の時の様子を尋ねた。
父曰く、8/1は昼より暴風。

ことに西風なれば正面より吹き付けるゆえ味方の不利なる事甚だしく夜に入りて一層強烈となり危険に。

夜が明けた頃、三十人ほどの者、次第に近寄り来たるゆえ、敵の朝駆けなるぞ、早く打ち払えと叫喚しながら弾丸一発発射するや、危機一髪、守衛している塁壁の下から太刀を抜き連ねて切って掛かって来たので、銃を投げ捨て抜き合い塁壁を隔てて切り合い。

敵の一人が塁壁の上に太刀真っ向上段に飛び上がりたる所を横に殴き払えば壁上より真っ逆様に転落したり。
↑平太の父虎之助は窯業を正業としていたが、幼少から武芸を好み、剣術、弓術、槍術、洋式銃を習うとともに、独学ではあるが、兵法・軍学を学び、源平合戦川中島の戦い関ヶ原の戦いなどの歴史上の合戦から、布陣、用兵、宿営、陣屋構え、敵情探索、地域住民の活用方法などの戦略・戦術の知識を身に着けていた。

藩士でないのに、このスペックよ。
ちなみにこの時41歳な。


虎之助は5人のうち1人を切り倒し、残る4人を相手に火花を散らしたが銃を持った3人の敵が現れ「早く敵を打て」と切り合っていた相手が言った。3人が一度に銃を発射。一発が父の左腕に命中。
↑すげーな、1対7で戦っておる。

 

父は尚も右手で戦ったが多勢に無勢、手疵を受けた事もあり引き揚げる事にし、隊長に退去を促した後、平太に出くわした事がわかった。

父は会津藩の戦略に誤りがあった事も述べた。
畢竟するに、この戦いにかくのごとく惨敗を招きしは、味方戦線のすぐ先なる六野瀬村の人夫を使役しありしに、前日味方数人、かの村に至り、敵の足溜りになりては不利なりとて、この村を残らず焼き払いたれば、かの村より来たり労役に当たりおりたる者ども大いに驚き、一同、居村を差して逃げゆきたり。
彼らには労苦も厭わず働きおりしに、意外にもかかる乱暴なる所業なれば大いに憤り、この恨みを晴らさんものと委しく案内せしものと見え、敵には抜刀隊を組織し、暴風に乗じて合図を待ち、各塁壁へ一時に切り崩すの計画にて、各塁壁毎に忍び寄りおりたるも、その機を得ざりしは、味方の僥倖にてありしと。
しかして、六野瀬村を隊長の命無くして焼き払いし事、萱野氏には大いに憤怒せられ、厳しく叱責せられしと、父の物語なり。

会津藩は退却するにあたりかつて領地だった蒲原郡の寺院や民家を焼き払って逃れており、それが恨みを買った。
それが元で人夫らが敵に味方した。

薩長軍を塁壁の近くまで案内した、と。
虎之助の証言により、萱野隊長は火を付ける事を命令していなかった事が明らかに。
↑一体どこの誰がやったのか?

今日はここまで。

 

15時半から夕食の用意。

その最中とうもろこしを切っている最中、指をザックリ。

包丁の刃の柄に近い部分で切っていた。

が、とうもろこしの芯が硬くてなかなか切れなくて、自分の体重を゙掛けても切れないでいた。

今年のとうもろこしは水不足で芯が硬い?

出血が酷かったが指の付け根を輪ゴムできつく縛ったら止血出来た。

これしきの傷でびびってたら戊辰戦争の本なんて読めない。

わいには戦国武将も愛した藍染Tシャツもあるし。

そのまま料理を゙続行。

 

17時過ぎに長男と孫達が到来。

長男が鰹の塩たたきを代わりに造ってくれた。

鰹の塩たたき、サラダ、とうもろこしとじゃがいも、ナス、さつまいも等のバター焼き、味噌汁、ご飯、サラミ、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒。

良く呑み良く食べた。

お皿は長男が洗ってくれた。

御一行は19時半に帰って行った。

読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は11126。

充実した一日だった。