2025/8/11月曜日
4時に覚醒し最新情報をチェック。
5時半に起床し洗濯。
納戸の窓を開けに行った時、醤油の瓶にカビを発見。
まーた、カビ菌を仕込んどる。
わいの醤油の仕込み瓶には450gの塩が入っていると言うに。

瓶の蓋を開けるとカビ菌が。

中に浮かせたり、脇にくっつけたり。

味噌も梅干しも冷蔵庫の中に行ったからの。
これに集中。
一ヶ月に一度はカビ菌を゙仕込んでくる。
おかげで、月イチでかき混ぜている。
わいは日に何度も納戸へ行くから、奴らも困っている。
本当は「あ”ー!」て驚かせたいのに、それが出来ないで居るからの。
「ドッキリカメラ」考案したのお前らやろ!
9時に図書館へ。
本を゙返却し、6冊借りてきた。
帰宅後、読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争」
〈川へ流す〉
六野瀬村(安田町)村長長谷川九郎平(文政七年生まれ)の『罹災之記事』にも物見や人夫として動員された村人の姿が描かれている。
「水原より大勢にて七月二十七日の朝五ッ時分(午前八時頃)逃げ来たり、赤坂山見立てここ一番と陣を取り、近郷村々人足出せと仰せられ候えども、当分人足一人も出る者なし。その日、草水観音寺風祭りと言って近郷老若にかかわらず皆参り、……それより大騒ぎ……まず、ニ、三十人ばかり早々に出だすべしと仰せられ候えども一人も行く者なし」
当初はお祭りの為断ったが会津から厳しく催促された為30人を出し会津が敗れると今度は薩長軍の人足になって会津若松まで転戦する様子が書かれている。
人足は女子も動員され食事の世話をさせられている。
久保村(安田町)の藤左衛門の家には釜七つが置かれ昼夜休まず飯を炊き、女達はむすびを握って戸板に並べ、それを俵に詰めて戦場に運んだ。
戦場に行くと会津方は「官賊」と呼んで鉄砲を撃ち、官軍は「御上意(←よう言うわ。孝明天皇の薫陶を受けた本物の明治天皇なら信頼する会津藩を討てなんて云わない。)」と声を掛け鉄砲、大砲を撃ち、村人達は右往左往。
死体の運搬もさせられ、会津藩の死者は「川へ投げ捨てる。そのとき人足の者ども、会津の奴らはとゆうて死骸を川へ流す」とある。
↑自分らの家や寺を焼かれたから恨むのは理解する。
ただ、この戦いは、日本が主権を守れるか、植民地に成り下がるかどうかの戦いたったんよ。
会津軍の兵達は、京都で本当は何が起こっていたのか知っていた人が殆ど。
正義は会津藩側にある。
この戦いで負けたがゆえに薩長による傀儡政権に。
明治天皇も傀儡。
日本はイギリスの植民地になり搾取される事に。
その証拠にイギリスの王子が明治に入ってすぐ正倉院の中に入ってるで。
あれって、天皇とか信長とか家康とか最高権力者しか入れないからの。
植民地になったからこその、今に繋がる税金地獄の始まりよ。
会津藩兵は戦略上、撤退する時、寺や民家を焼き払っており、この村も焼いた為、恨みを買った事が考えられる。
〈腰抜け侍〉
同じ久保村の佐藤辰太郎(天保六年生まれ)の筆による『乱語聞書集』は生々しい描写。
ここは薩長軍の基地となった為、村人達は戦闘の度に右往左往。
「二十八日晩、助左衛門来たりて、この辺は合戦の真ん中になるは必定なりという。……二十九日はしかも分田口(水原町)破れたるとのことにて、片町衆大騒ぎ、家財持ち運び、その夜寝ずにおり、………誠に臆病神が憑きたる時は武士も百姓も同じ事にて、白鷺も白旗に見えるとやらで、人心ほどおかしきものはなし。同二十九日昼から新発田のお人数繰り出し、……私所より俵五十俵と縄六、七束、懸矢(大槌)そのほかを持ち行き、この節私方より炊き出し五斗入り一俵、与一良方より一俵、……二日から八日まで日に三度ずつ炊き出し、八日は都合六十人前ずつ炊き出しいたし候」
この資料は会津落城まで記されている。
会津城下の戦闘では日本中大騒ぎと、その模様を書き連ねている。
前線に連れ出されて逃亡を図った人足が山中を六、七里も飯も食わずに歩いて村に戻り、それを知った村人が匿った事や人夫による分捕りの話もある。
また、戦闘で右腕を切り落とされた会津兵を人夫が引き倒し、薩長兵がその男の肉を切り取り人夫に食わせた事も記されている。
↑これだから、自分がもう駄目だと分かったら自刃するんよ。
死んで辱めを受けるとか最悪。
西郷一族23名も自刃して正解だったかも。下手に生け捕りされたら強姦されたあとに殺されたり、食われるから。
「これは何というものにやと尋ねければ、(薩長兵は)会津鳥と言うものなりと仰せありしとや」とあり、油が強かった事まで書いている。
これは驚くべき話。
肝を食う話は朝日山の戦闘でもあったが例外的とはいえ、人肉を食う風習があったことを示すもので戦争のなせる業とは言え人間が持つ狂気を物語る証言である。
もう一つ興味深い証言が。
新発田藩兵に関するもので「新発田の腰抜け侍、たかが五万石の身分、百姓の鼻紙にも足らぬ者が会津征伐致すなどとて、大恩を゙忘れ、恥をおいて先手に使われたるは、片腹いたき事なりなどと、散々に言い詈り聞くも笑止なことどもなり」
という一節がある。
これは、長州、越前、高田などの兵が言ったという。
裏切りは敵味方を問わず侮蔑されていた。
長州と会津は京都で激闘を繰り広げていた為、当初、この戦争を長州と会津の私怨と見る人さえ居た。
↑孝明天皇は幕府と関係を良くし諸外国との交渉にあたりたかったが長州藩が下関戦争など事件や騒ぎを起こし、怒った天皇は長州藩を京都出禁にしたんよ。
今も弾痕残ってるで。
会津藩は京都の治安を回復。
孝明天皇は感動し会津藩主松平容保を御所に招き、東宮の睦仁親王と共に饗応。
天皇自筆の感状にあたる、宸翰も与えた。2度も。
こんなに天皇から信頼されていた会津藩を戊辰戦争で賊とか行って叩き潰したんよ。薩長軍とその仲間達は。
今日はここまで。
10時半からクッキー作り。

11時に長男が孫達を連れて到来。
夫と長男は、長男の自転車修理に。
12時に長男と子守を交代。
自分は昼食の用意。
皆にはぶっかけうどんを用意。
自分は納豆ご飯と味噌汁メインでお腹を満たした。
長男達は13時半に帰って行った。
午後も読書と調べ物。
15時半から夕食作り。

鶏の南蛮漬け、鮭、枝豆、ご飯、味噌汁、ローストナッツ、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒。
18時に長男と孫達が到来。
良く呑んで良く食べた。
20時半に帰って行った。
お皿は長男が洗ってくれた。
有難い。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は7925。
充実した一日だった。