2025/8/10日曜日
4時15分に起床。
4時50分に畑へ。
今日も水遣り。

このあと降る雨に期待したい。
5時半に畑をあとに。
コンビニで買い物をしてから6時に帰宅。
雨が落ちてきたので洗濯はお休み。
シャワーを浴びベランダガーデニングの水遣りをしたら読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「平太の戊辰戦争」
二 白虎隊出陣
<寄合 一番隊、二番隊>
寄合組の平太と同じ年代の白虎隊が急遽、援軍に出兵したのはここの戦いが最初。
平太の日記によると、小松村(安田町)の累壁は要害悪しければ、ここには守備の兵のみ配置し、石間村(三川村)の関所に堅固胸壁築きたり。
小松村及び石間村の塁壁に付き警備しおりたるところへ、かねて水原敗戦の次第を若松城へ飛報し置きたりゆえ、元本隊の甲子組及び銃隊並びに寄合組、白虎隊など総勢三百余人、応援の兵来たりしにぞ、味方の喜び一方ならず、大いに猛威を回復せり。
白虎隊中に当地(同郷)の水野多門氏も交じりおりしより、朋友のことなれば相互に平素の疎遠を謝し、あわせて無事なるを祝福し、また今日までの戦況などを物語り、日光、西山に傾きたるを知らざりけり。
平太は水野多門と時が経つのも忘れて語り合うのである。
水野は本郷焼の陶祖水野源左衛門の末裔で寄合白虎隊に加わっていた。
白虎隊は三隊。
士中一番隊・二番隊、寄合一番隊・二番隊、足軽隊で総員340人前後。
飯盛山で自刃したのは士中二番隊の19名。
この日、寄合一番隊・二番隊の少年兵160余人が越後の戦線に配置された。
一行が鶴ヶ城から出陣したのは7/15。
七日町を下り越後街道を進軍。
寄合隊は中級武士の子弟で編成された部隊。
〈フランス語〉
この白虎隊士についてはのちに東京帝国大学総長になった山川健次郎の回想がある。
山川は15歳の時この戦争に遭遇。
当初白虎隊は15歳から17歳。
しかし、15歳では体力の発達がまだ十分ではないということで間もなく除隊に。
その為山川はごく短期間しか正規の白虎隊に所属していない。
が、日々白虎隊に準じた学習や軍事教練を受けていた。
『男爵山川先生伝』によると山川はフランス語の学習を命ぜられ会津に来ていた幕臣の沼間守一(慎次郎)と林正十郎について勉強。
沼間は旧幕府歩兵頭並で伝習隊の第二大隊長を務め、城下の延命寺に住み、毎日、会津藩兵にフランス式軍事教練を施していた。
林は徳川昭武に随行し、ヨーロッパを゙視察してきた人物。
山川の兄大蔵も一緒に随行。
その縁もあり会津支援にやってきた。
沼間の軍事教練は平太も受けた可能性が高い。
西洋医の松本良順もそうたが当時の会津には多くの知識人が参集していた。
〈非情な戦い〉
白虎隊は二手に分かれて最前線に投入された。
両隊は途中二拍し津川に到着。
そこから一番隊は新発田街道を上り数里先の赤谷村(新発田市)へ。
ここには遊撃隊、力士隊、鎮将隊などがいて、8/1から新発田藩兵を先鋒とする薩長軍と戦闘に。
白虎隊が到着したのが2日。
ここを破られると平太らが戦っている阿賀野川沿いの戦場が包囲されてしまう。
会津への侵入を防ぐには赤谷口も死守すべき関門だった。
後年、長州の奧平謙輔に「赤谷の戦いは甚だ激しかった。特に会津の槍隊には歯が立たず、兵を納めて新発田に帰った」と言わしめたほど、会津藩は胸壁を乗り越えて突進、赤谷を守ろうとした。
この辺りは幾つも山が連なり白虎隊は密林での銃撃戦を繰り広げ14日に16歳の佐々木新六郎が戦死。
退却の命令が出ても怯まず最後まで胸壁を守った。
新六郎は坂下(河沼郡会津坂下町)の生まれで兄悦太郎も鳥羽伏見の戦いで亡くなっている。
↑佐々木兄弟に哀悼。
平太の陣地に駆け付けた二番隊は、阿賀野川の対岸の佐取村(五泉市)の防備についた。
咲花温泉のある所である。
ここの長徳寺を本営とし、佐取山に胸壁を築いて戦った。
が、圧倒的な敵の前に、北岸の石間に撤退を゙余儀なくされ、その戦闘で星勇八、百瀬外次郎、小松八太郎の3人が戦死。
勇八と八太郎は16歳。
外次郎は17歳。
↑まだ高校生や。
この戦いでは敵の先鋒はどこも新発田藩兵が務めた。
同盟を離脱し敵を太夫浜に誘導し越後の戦局をひっくり返した新発田藩は薩長から見れば大功労者だが、会津に言わせれば卑劣な裏切り者であった。
新発田藩兵に追われることの屈辱感が全ての兵士にあり、それだけにどんなことがあっても越後口は死守するという固い信念があった。
白虎隊はこの後も犠牲者を出すが彼ら少年の胸にあるのは生まれ育った墳墓の地、会津を守るという使命感であった。
三 戦争風聞記
〈正確な戦況〉
戦場となった周辺の人々はこの戦争をどのように見たか。注目すべき幾つかの資料が『安田町史』にある。
一つは阿賀野川中流の右岸にあった小浮村(安田町)庄屋広田類助(文政十年生まれ)の『風書扣』
七月二十六日、保田大工風書、晴天、何の儀に候や、水原陣屋荷物会津へ引き取り候よし。
二十五日夜、官軍方、太夫浜経上がる。大人数のよし。
二十六日、大工申す通り莫大の荷物引きも切らさず運送に相なる。
七月二十七日風書、晴天、松ヶ崎の方、大砲響き渡り候。朝明に水原出火、誠に恐ろしき次第なり。保田町方、家内取り片付け大混雑相成り申し候。水原口風聞、御陣屋御人数、荒川並びに堤村までお繰り出し、右両所にて両勢鉄砲並びに剣戟の打ち合いにて官軍方2,3.人.会津方7,8人即死の由。……水原は御陣屋をはじめ寺々も過半焼失のよし。
七月二十八日 晴天 官軍御方保田町に400人程お詰め相成り申す。………六能勢村大火会津御方放火のよし。
七月二十九日晴天 所々大砲。朝方、六郎次森に相当り大火相見ゆ。新潟に候や。酒屋に候や。官軍員数五、六人ずつ村内所々御廻り、会津船4艘お引き揚げに相成り申し候。右積荷は塩、員数は凡そ六百くらいもこれあり候や。
八月一日大風、夕方から大雨に相成り、会津方赤坂道上に陣取り、明方官軍方大砲打ち出し………遂に会津方大敗軍に相成り、石間村へ引取り候。官軍方小松まで乗っ取り、このとき官軍方即死一人、手負二、三人のよし。会津およそ二十人程即死、手負分明ならず。
八月二日明け方小雨に相成る 新保行きの人足、朝飯前帰村致し、夜分提灯なく、土俵積みの仕事難儀致し候。
八月三日天気 生け捕り兵一人……堤先にて首切りに相成り申し候。
八月四日天気 昼頃より村松大砲響き、間もなく即刻村松見当にて大火に相成り、同日暮れ方まで焼けおり候。
八月五日天気 夜五ッ頃(午後8時頃)より大雨 当村人足昼夜勤十人差出候ところ、今日夕方三十人、急に人足申し来たり差し出し候。
庄屋にはかなり正確に戦況が伝わっており、昼夜を分かたず人足が動員されている。この村は戦場にならなかった為、記述も客観的で冷静である。
この前5月に村上から会津若松まで移動したが車で、高速道路でも遠く感じた。
それを殆どの人は徒歩で移動した。
全ては会津の領国を守る為。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫は11時にサンドイッチを食べたので昼は要らないと言われた。
午後も読書と調べ物。
15時半から夕食の準備。
17時に長男と孫達が到来。
今日は赤ちゃんも連れてきたので3人の孫が勢揃い。
孫好きのじいじは目尻が下がりっぱなしだった。

鶏手羽元と卵のさっぱり煮、サラダ、チーズ竹輪、ウォッカ赤紫蘇ジュース梅酒。
皆でワイワイモリモリ食べた。
お皿は長男が洗ってくれた。
20時に帰って行った。
ありがたく、読書と調べ物をする事に。
歩数計は7782。
充実した一日だった。