arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1431日目と畑と平太の戊辰戦争⑱

2025/8/9土曜日

4時半に起床し5時に畑へ。

雨が少ししか降らないので土がひび割れてきた。

水遣りは継続する事に。

6時に帰宅後、シャワーと洗濯。

ベランダガーデニングの水遣りを済ませたら9時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争

 


<父の安否>
中島町(水原の中心部)を通過し百津村に至りしとき、父親と共に笹岡村に出張しありし水野和三郎氏、後より疾駆し来たるより父の安否を尋ねしに、強いて退去を促したるもここを破壊させられては一大事なりとて頑強にも目に余る大軍に向かい、しきりに発射に勉めおられしも、我が退去するときはただ一人となりしゆえ、生死のほど計りがたしとのことなれば、小生落胆一方ならざりしもいかんとも施す術なく、悄然として退軍の列に従えり。
中潟村に至りしとき、父は後より疾駆し来たり、隊列に追い付きしは、再生の人に会するごとく喜色満面に溢れ、雀躍として欣悦せり。
平太親子の情愛が目に浮かぶ文章である。
それより数ヶ村を経て保田町(北蒲原郡安田町)に至り、酒造家にて朝食の用意を命ゼしに、亭主には、領主様より会津方の御用命は何事も受託せざるよう厳達なるゆえ、御命令に応じがたしとこのことなれば、一同大いに立腹。
言語道断の振る舞いなりと、敦圉し、抜き打ちに切付けたれば、危機一髪、雲を霞と逃げ失せたり。(敦圉はいきまくこと)        
また、家族にも遁げ去りたれば、 町内より人夫を狩り集め、朝食の用意を命じ程なく調理なりたれば、朝飯を喫し、直ちに石間方面へ出発、久保村、六野瀬村などを経て、草水村と六野瀬村との間なる赤坂山に胸壁を築き、防戦することとなる。

もっとも、水原町より赤坂山に至るの間は平地にして防御に不便なるも当所は石間方面の咽喉の上、要害よろしければ、ここの山を横断に胸壁を要所数ヵ所に築き、敵の襲い来るを待ち受けたり。
萱野は阿賀野川沿いの村々に胸壁を築いて必死の防禦をしようとするが次々に破られる。

最早挽回は不可能。

平太らは追われて保田町から石間村へ退却。


<巨大な地蔵尊>
この赤坂山の中央を横切りし街道は会津より石間の関所を経て越後国の関所を経て越後国への本道なり。
赤坂山の頂上には巨大なる石地蔵尊を安置しあり。

山の南下は阿賀野川の本流にして、山側は断岩屹立し屏風を立てたるが如し。

川の上なる山上は城阯なるよし、四方に高き土手を巡らしあり。
ここには清水七郎氏、新潟沖にて敵軍に焼き討ちせられ沈没したる神童丸の船手二十余名をもって警固し、道を横切り障壁を数ヵ所に築き、敵軍の防禦に備えたり。
萱野氏には山上に小屋を拵え、本営として惣軍を統括せられたり。


七月三十日
夜に至り西風激烈に起こり木の枝を折り砂塵を吹き飛ばし恐ろしき暴風なればこの虚に乗時夜襲の恐れあればとて、萱野氏には我ら五、六名を伴い各塁壁を巡視し、この暴風の機に乗じて夜襲の恐れあれば必ず不眠に警固せよと厳達せられたり。

時に午後十一頃なりし。

この暴風は西風なれば味方には正面に吹き掛かることにて、防禦に最も不利なり。

西面すれば砂塵、口、目に吹き入り面を向くべきなし。

平太は徹夜で警戒に当たる。
恐らく台風の襲来。
その中を敵は果敢に攻めてくる。
↑悪魔👿による台風アシスト。

 

<父、左腕に負傷>
八月一日の未明、銃声が四方に起こる。
「それ戦闘はじめたり」
と跳ね起きた平太が周囲を凝視すると、敵、味方の激烈な打ち合いとなっていた。

萱野氏には、敵に朝駆けせらしぞ、早々に出合え出合えと方々駆け巡り、声を限りに叫喚しありし所へ、八方より敗走し来たりて雑踏はなはだしところへ、父親虎之助馳せ来たり、もはや味方にはすべて敗軍となりたり、遺憾ながらここにては防戦の術なければ、隊長にも速やかに御退去なりたりしと。
私にも負傷せしと大刀を抜き持ちおりたり。

傷所を問えば左手なりとのことゆえ、左腕を銃丸に貫通せしのみと心得、さほど憂慮もせざりしに、山の下り道に至りしとき、八方より遁れ来たることなれば、非常の混雑なるに、父親には抜刀を携えおるゆえ、抜刀にて危険なれば鞘納めあれよと衆人より注意なれば、小生よりも納刀を促したるも、父親には左腕自由ならざれば、詮方なしとのことなれば、小生において抜身の刀を鞘に納めたり。

平太の父が左腕に貫通銃創を負った。

これが命取りとなる。
虎之助はあっという間に立てなくなった。石間村の病院で応急手当て。

津川の病院に転送される事に。

虎之助は平太に「お前は戦場に戻り奮闘せよ」と命じた。


<死傷者数十人>
この赤坂山の戦いは惨憺たる苦戦で死傷者数十人に及んだ。
隊長の萱野右兵衛も左腕貫通銃創を負っている。
赤坂山の南端の城跡を警備していた清水七郎の隊は兵士二十余人のうち負傷一人を残し全員戦死。                                                                                            
↑この隊て、神童丸の船手20人が居る隊?ちょっと調べてみる。
神童丸は順動丸か?


https://rekisi1961.livedoor.blog/archives/2760733.html

他の本から得た情報によると、地元民は会津藩兵に家を焼かれたから、西軍に味方。

会津藩の陣地まで案内したそうだ。

が、萱野右兵衛隊長によると、放火しろなどと、そんな命令は出していないそう。

部下が勝手にやったのだとしたら厳重に処罰する、と言ったそうだ。

確かに、彼は、会津若松藩から離れた領地に布陣するので、地元民の協力は不可欠。

積極的に交流し良い関係を保持しようと尽力していたと平太も書き留めている。 

会津若松近郊でも、会津藩兵を騙り民家に放火。

それが 原因で地元民が西軍に間道を 案内している。

西軍は嘘付きが多かったのな。

で、嘘付く事を何とも思わない。

「騙される方が悪い」

今日はここまで。

 

10時50分に孫達と公園で遊んでいる夫から嫁を病院に連れてってと連絡が。

嫁に聞くと蕁麻疹が酷いので病院を受診したい、と。

11時10分に嫁と赤ちゃんを迎えに行き嫁を病院て下ろした。

自分と赤ちゃんは自宅へ。

初めてうちに来た。

すやすや寝ているので早速、昼食作り。

このあと、公園で遊んでいる長男と孫達には家に来て昼食を食べてもらいそのまま赤ちゃんを見てもらう事に。

自分は13時からテニスを予約している。

昼食の焼きそばを作ったのに待てど暮らせど帰ってこない。

遂に13時を過ぎた。

テニスは予約時間を30分ずらして貰った。

13時25分に長男達が到来。

家で昼食を゙食べてきたそうだ。

は?

何がどうなってんだか。

13時半から14時半まで次男とテニス。

帰宅後、シャワー。

17時半から夕食作り。

19時半に長男は帰って行った。

後片付けを済ませたら営業終了。

読書と調べ物の続きをする事に。

 

歩数計は15656。

充実した一日だった。