arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1428日目と平太の戊辰戦争⑮

2025/8/6水曜日

3時に覚醒し最新情報をチェック。

4時に起床し4時半に畑へ。

まずは、赤紫蘇を収穫。

赤紫蘇ジュースが無くなりそうなので追加で作る事に。

帰宅後、黄色いゴーヤとキウイと赤紫蘇ジュースでゼリー作り。

赤い種も入れた。

その合間に赤紫蘇ジュース作り。

3.5リットル分出来た。

やる事やったら、読書と調べ物。

 

昨日に引き続き星亮一著「平太の戊辰戦争

 


<海上部隊>
薩長軍が新潟攻撃を目的とする海上部隊を編成したのは6月下旬。

決め手となったのは新発田藩の内応。
山県有朋の『越の山風』によると6/4の記述に下越五藩の家老、新発田の溝口伊織、村上の脇田蔵人、村松の笹岡豹太郎、黒川の中野東一、三日市の須永半之丞が連署して一通の嘆願書を出雲崎の陣営に差し出した事が書かれている。

そこには会津の謝罪状もあり、越後水害の惨状を訴えて休戦を求めていた。
山県は一蹴。

しかし、これを機に新発田藩は寝返りのサインを送り始めた。

それは『越の山風』七月十三日の項に決定的な記述となって現れる。


「折から参謀楠田十左衛門、新発田人寺田某、相馬某の両人、同道して到着したるが、両人の言う処によれば、新発田は賊徒のために追われてやむを得ず多少の兵を出したりといえども、もとより王師に抗するの意あるにあらざれば、両人帰郷の上、国内を鎮撫し、王師を迎うることにしたしとのことにて、果たしてその言に詐りなければ、敵の背後に上陸すべき軍隊は一層の便利を得るわけなり」


この二人とは新発田藩士寺田惣次郎と相馬作右衛門。

両人の報告で新発田藩は離脱の決断をし、山県ら首脳は新潟攻撃を決断する。
海上部隊を新潟に回した場合、誘導する地上部隊が居なければ危険。
上陸する際、攻撃を受ければ防ぐ事は難しく新発田藩の申し出は渡りに船。
海上部隊は軍艦摂津と丁卯の二隻に、千別丸、大鵬丸、錫懐丸、万年丸の四隻の汽船が動員され、軍艦は周囲の警戒。

汽船には薩長を主力とする約千人の兵を乗せ、敵前上陸を敢行するという作戦。
総指揮は参謀黒田清隆でその下に長州の山田市之丞。

山県はこの頃黒田とは絶縁状態。
7/23、柏崎を出た海上部隊はこの日のうちに佐渡小木港入り。
番所から米沢藩に第一報が入ったのは25日早朝。

 

<にわかに大騒ぎ>
新潟を守る米沢藩新潟口総督色部長門は25日未明、宿舎の光林寺で就寝中を叩き起こされた。
色部久長
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E9%83%A8%E4%B9%85%E9%95%B7

 

↑色部氏て代々上杉家の家臣。
上杉謙信から血染めの感状貰っとる由緒正しい名家や。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E9%83%A8%E6%B0%8F

 

 

佐渡方より蒸気船六艘、相見え候由、仁太郎小屋より御注進これあり候」


色部隊の日記『越後御出勢日記』は第一報をこう伝えている。

仁太郎小屋は信濃川川口の番所

新潟の海に敵海上部隊が姿を現したのだ。攻撃の情報が漏れるのを防ぐ為、佐渡に一泊しただけで24日夜半に佐渡を出港。
スネル兄弟にもすぐ伝令が走り、軍船に相違ないとわかり俄に大騒ぎに。
色部は直ちに海岸に出兵。
松ケ崎一帯の海は敵の艦船で埋め尽くされ手の施しようが無い状態だった。
上陸地点は新発田藩領の太夫浜。
新潟港から東に約七里半(30キロ弱)
上陸した薩長軍は太夫浜の領民を動員。

大量の軍需物資を陸上げ。

一隊はその日のうちに新発田城下に。
別動隊は新潟港に向かった。
会津藩の水原本陣は新発田とはごく近い。新発田藩兵が先導し敵が攻めてくるのは時間の問題。
折悪しく鶴岡に帰郷する庄内藩家老石原倉右衛門の駕籠が新潟に向かう先鋒部隊に太夫浜の手前で遭遇。
「止まれ」、駕籠は忽ち兵士に囲まれ、庄内兵士とわかるや直ちに銃殺された。
↑哀悼。


新発田藩もさ、同盟抜けるなら抜けるて連絡するのが筋やろ。

連絡無いから庄内藩の人達も安心して新発田藩領を通ってるわけでさ。
これは新発田藩のせいで起きた惨殺事件。


僅かに一挺の駕籠。
銃殺する必要もなかったと思われるが太夫浜に石原の血が流れた。
平太にも危機が迫る。
↑だーかーらー、新発田ははよう各方面に連絡せーよ。

太夫浜から水原まで16kmしかないで。

 

新発田藩城主溝口氏には京都及び伏見の戦後、敵軍と提携せしという噂ありしゆえ、溝口氏、京都戦後、帰国の節、若松城下通過の折り、七日町清水屋へ宿せしにより、敵軍と提携せしとのことゆえ、若松城へ留め置き、新発田城へ帰さざることとせんとは一般の世論なりしも、若年寄役西郷勇左衛門氏これを拒み自ら進んで新発田城まで溝口氏を護衛し、帰城せしめしゆえ、非難の声高りしも、今こそ思い知られたり。

平太は臍をかんだ。あのとき、新発田城主を捕らえておけばこうはならなかったという思い。

今日はここまで。

 

11時に長男と孫達が到来。

昼御飯をうちで食べるので、急遽昼食作り。

サワークリームドリアと冷やし中華を調理した。

14時半に帰って行った。

 

静かになった所で読書と調べ物。

からの寝落ち。

16時半に長女からの電話で覚醒。

今晩帰ってくるそうだ。

17時から夕食作り。

サラダ、ブリカマと鮭、長芋タラコ、なめこの味噌汁、ウォッカ赤紫蘇梅酒ロック。

18時半に夫と夕食。

良く呑み良く食べた。

後片付けを済ませたら営業終了。

長女が帰宅するまで読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は9595。

充実した一日だった。