4時に覚醒。
6時半まで読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「平太の戊辰戦争」
六月十九日 隊長萱野右兵衛 氏には御振合転ぜられ、番頭勤御免に相成り、水原陣屋へ帰休することとなり、当所横山隊と交代することとなり、与板城下へ通ずる本街道を守らしめ、それに上山藩の兵士、桑名藩、村上藩、水戸藩などの兵士を加え警固に備え、山手は桑名、村松、上山諸藩の兵士にて防備することとし、諸般の用事を済ませ種々戦具の荷を整理し出立の用意せり。
隊長が水原陣屋に異動。
5/1以来1ヶ月半ぶりに戦争の無い水原へ。
<信濃川転落>
六月二十日 午後一時出起のはずなりしも、早朝より霖雨激甚なれば諸事遅滞がちにて出立の節、夜に入り加うるに暴風起こり足るにより風、枝を鳴らし、驟雨篠を突くが如し。
出立に際し萱野隊長より小生に命ずるに、これより武具係のおりし宿営に往き本隊には只今出立するゆえ貴殿方にも直ちに出立させられよとの口達なり。
右宿所は当岩方村から与板城下方面へ隔たりたる所なれば、小生一人にては心細きことゆえ同行者を求むれども、いずれも出立の用意整え家の前へ出でたる折りなれば誰一人応ずる者なく、戦地のこととて明かりを点ずることかなわず。
平太は勇気を持って雨降る闇夜を疾駆。
ところが武具係の宿営に辿り着くと既に出発。
かくなる上は道を急ぎ本隊へ追い付かんと無我夢中で歩いていると、闇夜から話し声が。誰ぞ、と誰何すると大砲隊の佐原勇弥他2名。
2町ほど歩くと凄風一陣襲来。
佐原達が持っていた灯りも消え闇夜を徘徊。
すると、2.3町先に篝火が見えた。
それを目当てに十町程行ったところで突然まっ逆さまに信濃川に転落。
大洪水で道が崩落していた。
平太が助けてくれーと叫ぶと佐原達が駆けつけ手拭いを結びつけ紐にして流してくれた。それに掴まり何とか道路に這い上がった。
<鉄砲と凱旋>
平太は川に転落した時鉄砲を川に流してしまった。
あの温情溢れる隊長が厳しい顔で鉄砲を探せと言った。
鉄砲は兵士にとって命である。
父が病院を設置している住職に相談すると近くに住む水練の達人を探してくれ、その男が潜って十間離れた下流から鉄砲を引き上げてくれた。
6月21日、一行は地蔵堂を出発。
23日は越後の七不思議と言われる草水村の灯火油製造所と煮壺などを見物したり同じ新津の柄目木村の火を見たりしながら新津町に一泊。
翌24日に水原へ凱旋した。
<僧侶の消息>
平太らが世話になった金ケ崎村の住職は如何なる人物だろうか。
与板町町史編纂室に問い合わせたところ、『分水町史年表』に「昭和八年九月九日、観念寺の傑僧鈴木峯映没す。七十六歳」とあると知らせてきた。
残念な事に慶応四年時は11歳。
その父親の可能性があると笈ケ島の観念寺に問い合わせると、
当時の住職は鈴木祐義で峯映の育ての親だったそう。
観念寺の過去帳には戦死した会津藩士の名前もあるそうだ。
第四章 北方政権有利なり
一 新潟会議所
<互角の兵力>
『復古記』第十三冊に七月時点での越後口官軍の兵力数が書いてある。
長州十小隊をどの程度に見るかだが薩摩藩と同程度と見ると全軍で一万三千前後。
これに対し同盟軍は一万弱。
最終的に敵の兵力は三万に膨れ上がり3倍となるがこの時点では互角。
<スネル商会の繁盛>
新潟のスネル商会は日々多忙。
武器弾薬は弟のヘンリー・スネルが商船を使って新潟港に運び入れた。
本格的に武器の補給が始まるのは6月から。
この月だけで米沢藩は小銃・火薬など約五万六千ドル、八月及び九月に約六万ドル、合わせて十一万六千ドルを支払っている。庄内藩も七月に小銃・弾薬など約五万二千ドル分を買い求めた。
新潟の勝楽寺のスネルの店は千客万来で毎日宴会。
山海の珍味が並べられ酒は飲み放題だった。
↑スネルさん大儲け。
<二人の帝>
新潟港を共同管理する為の会議所も旧新潟奉行所に設立された。奥羽越の物産、特に蚕種や絹製品を諸外国に売り捌き、その代価で武器弾薬の購入にも充てようというもの。
諸外国の外交団に対し、同盟軍の独立声明文を送付するなど活発な外交交渉も展開。
文字通り北方政権の樹立を目指す新たな動きだった。
伏見宮邦家親王の第九皇子、輪王寺宮公現法親王が列藩同盟軍の盟主に推戴され榎本艦隊の輸送船で海路、常陸の平潟に入港。そこから会津を経由し仙台に入ったのもこの頃。
6/12からは仙台、米沢、会津、庄内、長岡の五藩首脳による軍議が新潟で連日開かれ諸外国に対する奥羽越の独立宣言文も作成された。
奥羽越こそ正義の軍とする、仙台藩芦名靱負、米沢藩色部長門、会津藩梶原平馬、長岡藩河井継之助、庄内藩石原倉右衛門連名の宣言文である。
七月七日に仙台藩士横尾東作、会津藩士雑賀孫六郎、米沢藩士佐藤市之允の三人が米国、イギリス、フランスなど十一ヵ国に渡すため英国船アルビオン号に乗り横浜へ。
三人はもう一つ重大な任務が。
榎本艦隊の新潟派遣要請である。列藩同盟首脳にとって最大の危惧は薩長軍の軍艦。
薩摩の「乾行」、長州の「丁卯」が寺泊沖に姿を見せ砲撃を加えた他、兵員、弾薬の輸送に大活躍。
これに牽制を加え、越後の海の制海権を握るには榎本艦隊の来航が鍵だった。
今日はここまで。
6時半から洗濯と朝食作り。
合間にベランダガーデニングの水遣り。
8時半に買い物へ。
帰宅後、10時から再び、読書と調べ物。
11時半から強烈な電磁波攻撃が腹に。
わいに昼食を゙食べさせたくない?
痩せちゃうやん。
そのうち顔面にも痛みが。
以前喰らったDEW攻撃に似ている。
痛みを堪えながら昼食の用意。
食べるかどうか迷う程の腹痛だったが、根性で食べた。
夫は冷やし中華。
自分は納豆ご飯と牛すじ煮込みスープメインでお腹を満たした。
午後も読書と調べ物。
17時から夕食の用意。
長男から夕食を食べに来るのは土日だけで良いよ、と言われたので今日からは老夫婦2人の夕食。
次男は夜は外で食べて来る事が多い。

焼きそば、たこ焼き、サラダ、黄色いゴーヤとひき肉の味噌炒め、おいなりさん、昨日の牛すじトマト煮込み、ウォッカ赤紫蘇梅酒ロック。
焼きそばとたこ焼きは青森の実家から。
正確に言うと青森の実家に泊まりに行った娘が余ったおかず等を実家の母にお土産に持たされ、それをうちにクール便で送ってきた。
紅生姜たっぷりのピンク酢飯のお稲荷さんは母の手作り。
懐かしい味だった。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
歩数計は5968。
充実した一日だった。