arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1425日目と茄子の古漬けと平太の戊辰戦争⑫

2025/8/3日曜日

4時に起床し4時45分に畑へ。

ズッキーニとゴーヤ、キュウリ等を収穫し水遣りしてから6時に家路に。

帰宅後シャワーと洗濯、藍染、茄子の古漬け。

 

茄子の古漬けは初めて。

千葉に住む叔父と実家の母から同日に大量の茄子が到着。

冷蔵庫に入り切らないので漬ける事に。

重しは次男のダンベルを8.75kg分拝借。

 

 

やる事やったら10時から読書と調べ物。

昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争

 

 

梶原は説いた。

千坂は梶原の意を受けその足でスネル兄と共に越後に入り全軍を指揮する事に。

米沢藩参謀甘粕継成の日記にもその事が記されている。

「総督千坂太郎左衛門、………去る(五月)二十三日、米沢を出立、会津に赴き、同二十四日登城、容保公父子に面謁、種々御頼入の命、かつ越敵退治の軍議あり。折節、フロイス人スネルという者、会津に来たりおり総督と面会、この者の建議にて軍艦を買って高田を衝く策、金を鋳る策などを談じ、アメリカ製の蒸気船カガノカミ号という船を借売に世話すべく、またインドの洋軍士を雇い来たりて戦を助くべき旨を申す。総督、よりて越後軍の参謀に頼みたく云々を言う。スネル大いに悦び、椅子下で拝謝し、よりて総督と共に新潟に赴き、船員の世話、玉薬、諸軍器の世話、及び新潟港取り決めなどを致すべき旨、約定すという」

見附に進駐した米沢藩薩長に協力した大庄屋6名を捕縛。

村松城下に連行。

戦いは地域住民の対策も含め総力戦の様相に。

 

三 平太転戦

〈新しき墓標〉

六月一日 本隊長萱野右兵衛氏はじめ諸藩の隊長、桑名藩の陣営なる塩入峠に会合。種々戦闘上の商議の後、酒食の饗応あり。夕景に至り退場の節、会主なる桑名藩雷神隊隊長馬場三九郎氏には一同を一町余見送り来たりしに、双方厚く謝辞を述べ、既に袂を分かたんとするとき、何れよりか流れ丸飛び来たり、馬場氏額を銃丸貫通し、即死せられしは誠に遺憾の極みなり。

 

↑DS悪魔派遣のヒットマン現るー。

足も速く行動も俊敏なこの方が居ると不都合な官軍なのであったー。

 

この時平太は桑名藩領の塩入峠に居た。

塩入峠は三島郡与板町と和島村の境にある峠で海辺の寺泊に至る道筋。良寛に関する旧跡もあり、山間の集落。

平太はこの頃熱を出し桑名ゆかりの僧侶がいる金ヶ崎村(寺泊町)の寺に設置した野戦病院に入院。

 

六月二日 本隊には小島谷村(和島村)方面へ進軍につき、病院にも同方面へ、出張することとなりしゆえ、小生にも快方に趣きたれば、医員と共に当寺を出立せり。

だいぶ時刻も遅れたれば、悪路なれども近道よからんと人夫の言に従い、凡そ半道(約2キロ)程の処、道の左側山手の小高き所に桑名藩士七名の新しき墓標あり。

医師山田謙造氏、牧野七衛門と記せし墓標を指し、この人は我ら病院にて手当てせし人なり。過日、激戦の節、大砲にて下腹部を貫通せられあまり大傷にて治療を施す術なく、下腹部の処に綿撤糸を多分に押し当て、その上を白木綿を巻き置きしなれども二日二夜元気にて生存せしも二夜目の暁に至り絶息せりと。

右牧野氏の治療の節、下腹部より下がりおりたる胴巻き、邪魔なれば切断せしに、金銀取り混ぜ三百両程の金子を所持しおりたるをもって見るも幸福なりしを知るべし。

 

当時、戦場に赴く兵士たちは懐中に大金を忍ばせている者が多く、戦国時代のように夜盗に襲われ、金を奪われて殺害されたケースもあった。

このように各藩とも必ず医師を同伴し、戦場の寺院に野戦病院を開設。

会津藩の場合、重傷患者は会津若松まで搬送し治療。

会津本国では藩校日新館に軍事病院が開設されており、旧幕府医学所頭取、西洋医の松本良順が来て治療に。

戦傷者は小銃による貫通銃創屋破裂弾による複雑骨折などの大怪我が多く外科手術出来る病院が必要だった。ん

会津藩の最精強部隊佐川官兵衛隊の調書に戦傷者への細かい配慮を裏付ける資料が。

「五月十日より十九日まで十日間の戦いに我が隊に死傷者左の通りに候こと。討死伊東重太郎、若松表は罷り帰り候手負山岸六郎、梶原豊記、津田助五郎、鈴木寅次郎、六日町病院に療治能り在り候浅手高橋金吾」

「五月二十九日、大竹餘吾儀、病気に付き願いの上、若松表へ罷り帰り候こと」

「九月十日、橋本忠八、片岡繁次郎、越国より手負にて若松表へ罷り帰り候処、全快に相成りとて熊倉村へ参着致し候こと」

 

〈親子の深い情愛〉

6/2,寺泊に近い島崎村で戦闘があり萱野隊と桑名軍が快勝。

桑名ゆかりの僧侶が弥彦方面に布陣していた会津藩佐藤織之進の隊に援軍を依頼。

佐藤隊が応援に駆けつけ島崎村の山上から大小砲を雨霰と浴びせ押し寄せた300の敵を撃退。

山間部のゲリラ戦の場合、地域住民の協力が勝敗の鍵を握る。

両軍の力は拮抗。

長期戦の様相を深めていた。

平太が父を深く尊敬していた事は次の日記からも明らか。

 

六月三日 早朝、敵敗残の光景視察のため父虎之助その他五、六人出張の途中、堀の中に首なき死体に石を押し掛け沈めありしを虎之助発見。人夫に命じて引き上げ死体を改め見るに首級及び大刀もなく右手指様の小刀のみ帯び、懐中には金七両他書多数あり。且つ妻女よりの送書にて加賀国金沢の藩士にて金子栄五郎なること判明せり。

時に父親虎之助、妻女よりの文を見て憐れみを催し、詠みし歌なりとて小生に示したるに、

けさははや越路の露と消えにしを 知らでや人のたよりまつらん

↑虎之助作歌。

その場で詠むとか凄いな。

 

虎之助自身、情感溢れる人物であったようで平太は父のこうした行為を誇らしげに見つめている。

この後、平太は戦闘が行われた場所に行き周辺は兵火のため過半が焼失、

敵の死傷者は二百人にも及んだと村人から聞いた。

この帰り、平太は通りかかった小川にタニシが居るのを見つけ大量に採取しそれを夕食の膳に出し好評を得た。

↑ミヤイリガイには気をつけよう。

 

〈戦場での釣り〉

夏に入ると休戦状態。

与板城に近い当ノ浦の砲塁で本隊の兵士15人が円座になって酒食しているところに敵の砲弾が落ち、4人が負傷した事を除いては戦闘らしきものは無い。

↑当時、こんなピンポイントで砲弾命中させる技術無いやろ。よって悪魔によるピンポイント砲撃。

6/11やん。

http://apple2004.fem.jp/kaguyast/toti/jinbutu/bosin_kuwana.html

 

 

萱野隊はこの砲弾の威力に注目。

砲塁を゙突き抜けて遥か彼方の山に突き刺さった砲弾を発掘して調査。

その結果、長岡藩が奪われた長四斤砲の砲弾とわかった。

与板城に配備していた。

↑そんな威力のある大砲、絶対敵に奪われたら駄目やろ。

武器庫でもあった長岡城を奪われないように作戦立てなきゃ。

やっぱ小千谷を奪われたのが痛いのか。

 

この休戦は列藩同盟が機能し軍事顧問のスネル兄弟が新潟港から武器弾薬を運び入れ補給が順調に行われ始めた事も関係。

逆に敵は補給が途絶えた。

↑ホント?それは何故?

 

平太にも余裕が生まれ小川で釣りも楽しんでいる。

 

(六月六日)地蔵堂町より女子数人軍隊の宿営を目的に種々の物品を行商しあるをもって、彼の者に託し釣りの用具を整え、出猟を試みしに、他の人は尺余の鯉、鮒などを多数釣り得たるも余には二、三寸の鮒三、四匹獲取せしのみなれば、大いに閉口、頓首凝したるぞ笑止けり。

 

ここに出てくる地蔵堂町信濃川の川岸場町として栄えた場所。この辺りの物資の集散地。魚商、荒物商、古着屋、八百屋など多くの店があり、こうして戦場にも行商する女性たちが回っていた。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

13時から次男のテニスの練習に夫とお付き合い。

暑かった、一カゴ毎に休憩をし、凌いた。

赤紫蘇ジュースが美味しかった。

 

帰宅後、本日2回目のシャワー。

15時半から夕食の用意。

16時45分に長男と孫達が到来。

牛すじトマト煮込み、キュウリとレタスの海苔サラダ、ペペロンチーノ、ウォッカ梅酒ロック。

孫達には唐辛子無しのペペロンチーノ。

次男が唐辛子有りのペペロンチーノを美味しい!とお替り。

足りないと思い追加で唐辛子有りを調理。

ズッキーニとゴーヤを入れてみた。

めっちゃ美味しかった。

19時からは青森のねぶた祭りのライブ中継を視聴。

長男と孫達は19時半に帰って行った。

ねぶたを゙視聴後ブログ編集していたら寝落ち。

今日はテニス後から呑んでいたからの。

1時50分に覚醒。

アップ後、読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は16191。

充実した一日だった。