arimahamaの日記

アメバから引っ越しました。

オートファジー1424日目と平太の戊辰戦争⑪

2025/8/2土曜日

4時に起床し畑に行こうとしたら雨が降っていた。

久しぶりの雨はありがたい。

畑はお休み。

このあと晴れるので洗濯は回すことに。

そして、ベランダガーデニングの水遣りもいつも通り。

合間に朝食と納豆作り。

朝の家事を済ませたら6時半から読書と調べ物。

 

昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争

 


五月二十七日 地蔵堂を出発し与板城下を指して進軍したり。

本隊の兵士を先頭に桑名、村上、水戸、上山諸藩兵士、五藩兵都合700余人、過般敗戦の恥辱を雪がんものと、一同、意気大いに揚がり、威風堂々として進み行くところに田尻村(三島郡寺泊町)あり。

敵軍村端に砲台を築き、大砲数門据え置き待ちおりたり。

味方の兵、近寄ると見るや、大砲連発することしきりなし。


奥羽越列藩同盟が漸く機能。
平太の軍に越後村村上藩羽州上山藩会津応援の水戸市川勢300人余人が加わった。
与板は彦根支藩
衝鋒隊が脅し上げ一時は長岡に協力の姿勢を示したが長岡が落城するや反同盟の立場を明確に。
与板藩では長州奇兵隊を領内に入れ守備。同盟軍接近の報で薩摩半小隊も駆け付け砲13門を配置し待ち伏せ
この地は長岡と出雲崎に近く信濃川の水運に恵まれ与板城を中心に武家屋敷、備前屋、大坂屋、泉谷屋、扇屋といった豪商の屋敷が立ち並ぶ豊かな所で同盟軍としては是が非でも奪い返したい戦略基地。
両軍の激闘開始。
平太の軍は桑名藩雷神隊と共同で与板城の裏側に回り山手の敵と対峙。

この夜は山上に野営。

 

五月二十八日 払暁より進軍せしに、敵軍にも要所に塁壁を築き襲来遅しと待ち受けたれば、我軍にも土手或いは樹木を盾に漸進躍動、射撃数時、敵の堅塁を陥し、急遽追々せり。
桑名藩雷神隊長馬場三九郎氏には真っ先に疾駆突進せしに、敵の隊長と見え立派なる軍服を着し遁げ去るを゙認めたければ急遽「待て」と呼び掛けしに敵なりとは夢にも知らず、味方と思えしや歩みを止めて待ちおりたり。
近寄るに従い凝視すれば、袖印にて敵なる事判然たれば俄に駆け出したり。

さすが気早の馬場氏なれば疾風迅雷駆け付けたる。
危機一髪敵よりピストル2発まで発射せしが命中せず。

この時霹靂一声抜き打ちに真っ向より斬りつけたり。

馬場が挙げた首級の人物は羅紗のマントを纏い深紅の半袴と脚絆を身につけるという奇妙な出で立ちで黄金造りの太刀を帯びていた。
手に取って眺めると、この太刀は桑名藩主が京都立ち退きの際、持ち出せなかった物を与板藩士が分捕っていたものであった。藩主秘蔵の刀だっただけにこれを知った桑名兵は欣喜雀躍、狂喜したと平太は記している。


〈味方散乱〉
5/29, 早朝から与板城下へと進軍中、敵弾が雨霰となって落下。
敵軍はハンドモール砲(携臼砲)を数門構えているようだ。
臼砲は砲身が口径に比べて短く、射角の大きい砲。
上から砲弾が落ちてくる。
その中を味方兵は少しの乱れも見せず、「鋭意進撃し……叫喚鋭く猛進」、数刻にわたって交戦したあげく、勇往邁進、敵の塁壁を奪取した上、更には「疾駆追撃」しここでは勝利。
同盟軍はここぞとばかりに更に攻撃。

しかしこれは失敗だった。
与板城下方面からは数十門の大砲が発射され、その上、上山藩兵の旗が敵軍の旗に類似していた為桑名藩兵が敵と誤認して打ちまくり、結果、追撃していた同盟軍は前後三方から銃弾の乱射を受ける羽目に。
桑名藩兵のミスやな。

 

その折、平太の属する隊の春日新次郎が腰を撃たれて歩行できなくなった。
春日は自決せんと短刀を抜いた為、皆が駆け寄ってなだめ担架で後方に運ぶという事件も起こっている。

敵の砲撃はますます激しさを増し、退却のやむなきに。
そこを激しく狙い打たれ、味方は散乱、平太は山上に残れようと必死に駆け上がったが敵からは丸見え。
霰の如く砲弾を浴びせ掛けられた。
それでも匍匐してやっと山上に。
気が付くと味方は誰も居ない。「誰一人登り来たる人なく、悄然として歩を進め山上に至り見る」
すると、そここら30間程離れた所に敵か味方か300程の兵士が休んで居た。
駆け寄った兵士に「いずれの藩なるや」と問われ「会藩なり」と答えると、それは桑名藩士だった。
桑名兵は平太に夕飯を食べさせ会津の本隊まで送り届けてくれる事に。そこから山道を十町程下った所に大松が二本ある。そこで会津本隊の七人が来合せお互いの無事を喜んだ。


〈泣き叫ぶ子供達〉
不審な小勢を見つけた平太らは射撃の用意をし近づくのを待った。
「ほどなく我らの忍びおる間近に来たりければ、急遽大声に、何者ならんと叫喚しければ、彼らは思いもよらざる所を大声疾呼せられしことゆえ吃驚し、女子供は泣き叫び、驚愕狼狽して憐れみを乞う」
平太の前に現れたのはこの界隈の農民達。
家屋は焼かれ砲弾が飛来する中から身を避けるため山に逃げ込んできたもので、子供はギャーギャー泣き叫び、女子はワーワーと、泣き喚き、しきりに命を助けてくれと叫んだ。

平太らが窮惨を慰めるとやっと安堵。
平太はこの事が余程胸に応えたと見えかなりのスペースを割いてこの模様を記している。


〈父親と涙の再会〉
この辺りは信濃川と山脈の間を通ずる与板街道に連なる狭間の土地。

協議により山より下り民家盛んに焼け落ちる村落を通過し大砲を打ち出す音を頼りに本道に出ると、果たして本隊の大砲隊であった。
父を含め一同大いに喜んだ。


〈千坂の登場〉
この頃会津若松で重要な会談が。
会津藩政務担当家老、事実上の最高指導者である梶原平馬米沢藩軍事総督の千坂太郎左衛門が向き合っていた。
2人共20代後半。
千坂は門閥の出だが一家一兵、一兵一銃など兵制改革を進め今回会津藩が苦境に立った際、いち早く救いの手を差し伸べ奥羽越列藩同盟を推進した梶原の同志。
梶原は千原に越後の全軍を仕切ることを求め主君上杉斉憲公が直々越後に出馬するよう懇願。

梶原の傍らには軍事顧問のスネル兄も居た。
↑スネル兄はどの段階で会津から逃げたんやろ。
後で出てくるか。

 

列藩の運命は越後に掛かっていた。ここを死守すれば武器弾薬の補給も可能。

↑逆にここを制圧されると終了。

今日はここまで。

 

12時に昨夜以来の食事。

夫には冷やし中華を調理。

自分は納豆ご飯とスープメインでお腹を満たした。

午後も読書と調べ物。

15時から夕食の用意。

17時に長男と孫達が来訪。

高野豆腐と人参のタラコ炒め煮、焼きとうもろこし、豚しゃぶサラダ、ウォッカ赤紫蘇梅酒ロック。

食後にフルーツゼリーも提供。

20時過ぎに帰って行った。

お皿は長男が洗ってくれた。

有り難く読書と調べ物をする事に。

 

歩数計は6905。

充実した一日だった。