2025/8/1金曜日
4時半に起床し4時50分に畑へ。

ズッキーニを収穫したら水遣り。
5時半に帰宅後、シャワーと洗濯。
夫の朝食と昼食の下拵を済ませたら8時半に買い物へ。
9時半に帰宅後、読書と調べ物。
昨日に引き続き星亮一著「平太の戊辰戦争」
米沢の本隊は5/12に本国を出発。
家老色部長門を総督に参謀に甘粕継成、御馬廻大隊将大井田修平らの600余。
本隊は14日に越後岩船郡下関村入り。
ここは越後と米沢の交易の中心地。
耕地700町歩、山林1000町歩を経営する豪農渡辺三左衛門家があった。
渡辺家は村上藩士の出で廻船業、酒造業も営み、米沢藩御用達でもある。
列藩同盟の軍事顧問スネル兄弟から仕入れた2200挺の小銃弾薬がつい2,3日前に岩船沖の粟島経由で渡辺家に搬入された。
5/17に先発隊と中条で会い、18日に水原入り。
本隊の詳細な記録である『甘粕継成日記』によると色部総督の体調が思わしくなく本隊の意気上がらず。
参謀の甘粕継成は一日も早く長岡入りしようと撤兵一小隊を率い五泉に。
19日村松入り。
「長岡勢及び、会津、桑名、村松勢、皆狼狽潰乱、同志打ち多く、遂にたまり兼ねて城を自焼し栃尾に奔る」
「村松の家老堀右衛門三郎、矢部万平、忙しく来たりて面会を゙乞い、長岡落城の上は敵、直ちに村松に攻め来るべし。万一の節は、領主堀右京亮はじめ家族残らず米沢へ立ち退かせ、御保護を蒙りたく嘆願のよし」日記は村松藩の周章狼狽も記し、新津で待機する色部総督に急報すると色部は意気消沈。
中老の若林作兵衛は本隊の撤退を主張。
はじめから米沢の藩論の不一致を露呈。
しかし、甘粕はここで米沢が逃げては天下の笑い者になると若林を゙抑え、進軍。
米沢藩の到着は打ちひしがれていた長岡、会津の藩兵や衝鋒隊を鼓舞。
同盟軍は長岡奪還を目指し攻勢に。
〈加茂の軍議〉
長岡、会津の藩兵が集結しているのを知った甘粕は加茂に急行。
5/22, 大雨の中、加茂で軍議。
甘粕の日記や『会津戊辰戦史』に出席者の顔触れが。
(名前はそれぞれ若干異なっている。誤記もあり、他の文献も見て統一した)
米沢藩 中条豊前、甘粕継成、倉崎七左衛門、高山与太郎、大滝甚兵衛
会津藩 一瀬要人、西郷刑部、山田陽次郎、秋月悌次郎、永岡敬次郎、柳田新助
長岡藩 河井継之助、花輪求馬、村松忠次右衛門
桑名藩 金子権太左衛門、村松五次右衛門、小寺新吾左衛門、松浦秀八、立見鑑三郎
村松藩 水谷孫平次、稲毛源五右衛門
上山藩 祝新兵衛
会津藩から秋月悌次郎と永岡敬次郎の2人の参謀が出席。
2人共に京都で活躍した公用人。
会津と長岡の根回しは秋月が担当。
河井が長崎に遊学した際、一緒に。
以来、肝胆相照らす仲となり江戸でも交際。
失意の河井にとって秋月の登場は救われたのでは。
秋月は敵方の薩摩にも人脈があり、後に熊本の第五高等中学校の教授となり、同僚のラフカディオ・ハーンに「神のような人物」と言わしめた魂の人。
永岡は仙台に常駐、仙台の参謀達と列藩同盟の結成を進めてきた知謀。
戦後は会津藩再興の夢を求めて下北半島に斗南藩を創設。
少参事として藩の経営に当たる。
失敗に終わるや旧敵だった長州の前原一誠と共に反政府運動に転じ、萩の乱で獄死。
会津本庁は長岡落城を知るや、二人を急遽、越後に派遣、梃入れを計ったのではないかと思われる。
猛将佐川官兵衛は栃堀村に布陣。
会議に出席せず。
この会議の席上、村松藩に批判が集中。
長岡落城の際、味方に発砲した罪を問われた。
「裏切り行為は許さぬ」と厳しく詰め寄られ田中と森はひたすら謝罪。
当面は会津、米沢、長岡三藩主導で見附、三条、与板に攻撃を仕掛け長岡の奪還を目指す事で合意。
藩主を米沢に立ち退かせる事を勧め田中と森が受け入れた事で村松藩に対する叛逆の嫌疑は消えた。
二 与板城攻撃
〈黄金の太刀〉
平太も栃堀村(栃尾市)で米沢藩の援軍到着を知った。
長岡城主と家族は八十里峠から会津へ逃れた。
河井も佐川も長岡城奪回に燃え全軍加茂に集結。
加茂に同盟軍本部を置く事に。
萱野隊も加茂へ。
米沢藩の参戦が同盟軍の士気に与えた影響は大きかった。
軍議の結果、平太達の隊は三条方面へ進軍。与板城下へ進撃する旨の指令を受け三条町に宿陣。
翌26日、地蔵堂町に来た辺りで連日の激雨により辺り一面湖と化しているのを目にする。
↑加茂軍議に関しては本を購入したので後でじっくり読んでみる事に。
西軍の進軍が早く奥羽越諸藩は後手後手に。
でもな、奥羽越諸藩を責めるのはお門違い。
一番悪いのは、何が何だか知らんけど、皆が平和に暮らしていた北日本に攻めてきた“西軍”。
みんなね、庶民はね、16世紀の戦国時代で地獄を見たの。
いくさが終わったー!て。
安心して米作れるー!て。
その幸せをぶち壊したのが西軍の皆様。
イギリスに煽られて。
結果、植民地。
搾取生活が始まった。
欧米に砲撃外交されたからしゃーないのか?
幕府は最後の最後まで外国と交渉したり、製鉄所と造船所建設始めたり努力してたで。
王政復古のクーデターが無ければ、幕府が倒れなければ、もっと良い国になっていたのでは。
素晴らしい人材が揃っていたから。
今、植民地の極みに達してる。
奴らの傀儡に統治させてる。
ええ加減、性善説から離れないと。
今日はここまで。
12時に昨夜以来の食事。
夫には冷や麦を゙調理。
自分は納豆ご飯とスープメインでお腹を満たした。
夕食の下ごしらえを゙済ませてから、読書と調べ物。
15時半から夕食作り。

キュウリの塩昆布漬け、鶏の唐揚げ風、春雨サラダ、なめこの味噌汁、チーズ竹輪、ウォッカ梅酒ロック。
17時に長男と孫達が来訪。
久しぶりに孫と団欒。
幸せな一時を過ごした。
18時半に帰って行った。
後片付けを済ませたら営業終了。
読書と調べ物の続きをする事に。
畑まで往復1km,自転車は6km。
五千歩位かな。
充実した一日だった。