2025/7/30 水曜日
4時に起床し4時半に畑へ。

赤紫蘇が一番元気なので収穫し赤紫蘇ジュースを作る事に。
水遣りを済ませたら6時に帰路に。
帰宅後、シャワーと洗濯。
ベランダガーデニングの水遣りを終えたら、まずは、昨日一日掛けて作った梅干しの黒焼きをチェック。

まだ、赤く柔らかい部分が残っている梅干しは別の容器に。
梅キャンディにして、体調悪い時に舐め舐め。
種も梅キャンディの容器へin。
黒い部分はグラインダーで粉末に。
次は、赤紫蘇ジュース作り。
葉は計量すると600g。
3リットルの水を沸騰させ中火で20分間煮た。
砂糖600gを混ぜ、よーくかき混ぜたら最後に酢を500g。
すると綺麗な赤色に。
早速試飲。

酢が効いててさっぱりして暑い日の飲み物にピッタリやな。
スッキリしたら中華麹の材料をセット。
朝、麹も完成したので出麹。

発酵機無しで一挙に1.2kgの麹が完成。
真夏ならでは。
朝からやる事一杯で大忙しの中、カムチャッカ半島でのマグニチュード8.8の地震による津波警報発令。
親族の所在と安否確認に追われた。
出張中の長女は移動中の電車が止まったそうだ。
一番海に近いのは磐田市で研修中の次男。
今夜は避難所に宿泊するそうだ。
で、磐田市の事を調べているとスマートシティに指定されている事が判明。
しかも、気象庁が明日一日は津波の第二波、第三波に警戒した方が良いと発表。
何でも遠方で発生した地震による津波は第二波、第三波の方が高かったりするそう。
そういえば、チリ沖地震後の津波は三陸沖に1週間後に到達したそうだ。

https://dil.bosai.go.jp/disaster/1960chile/lesson01.html
SNSの発達した現代では考えられない。
12時に昨夜以来の食事。
残り物のカレーでお腹を満たした。
午後も津波警報の続報をチェック。
続々と津波が到達していた。
驚いたのは漁港等で津波を見学中の人々。
東日本大震災を知らないのだろうか。
わいは高校生の時の日本海中部地震で津波の恐ろしさを叩き込まれた。
多くの児童と潜水夫が犠牲になった。
津波情報をチェックしたら、読書と調べ物。
昨日に引き続き、星亮一著「平太の戊辰戦争」
三 長岡落城
〈狂気の戦場〉
翌五月十四日は晴天。
朝日山は暑さを避けるには萱の茂みに横臥するしか無かった。
天を見上げているとやたら蝿が飛んでいる。
辺りを確かめると枕元に前日斬殺された長州兵の首が置かれていた。誰かが悪戯した。
↑多分悪魔くん。
いつでも狂ってる。
戦場は人を狂わせる。
衝鋒隊の桃沢配下の歩兵が敵兵の生き肝を切り取って来てまだ脈があるなり、と飲み込んだ。
「この者、夕景に至り発狂しければ厳しく戒め」られ長岡城下に護送された。
平太は戦場の狂気を見逃さず記録。
↑これは戊辰戦争全体に見られる悪しき習慣。
薩長軍も随所で同じ事を行っている。
捕らわれたら最後、殺されて肝を取られると覚悟しなければならなかった。
五月十四日、平太の隊は寺沢村に転営。
久方ぶりで一風呂浴び、布団の上で眠った。
しかし、5日後、長岡城が落城。
〈黒煙空を覆う〉
五月十九日、平太の隊は寺沢村を出発。
蘭木(うとぎ)村を目指した。
午前10時頃、砲声が遠雷のようにしきりと聞こえてきた。
続いて北方では火災も。
「災煥天を焦がし、黒煙空を覆う」光景。
地方の人夫に火災の方向を尋ねると「長岡の城なるべし」と答える。
しかし、確実な情報が無い以上、予定通り進軍。
蘭木村に到着し策敵。
一里先で敵が要所要所に胸壁を築いて待ち構えていた。
忽ち接戦となるが味方は長岡城落城を゙知り戦意が上がらない。
戦い利非ずとして蘭木村まで撤退。
死者一名負傷二名を出した。
そこに長岡落城を知らせる使者が到着。
帰路を遮断されただけに進退窮まる状態に陥った。
協議の結果、山を越え栃尾地方に退去。
八十里の間道を経て会津に帰国する以外にないと一決。
五月二十日、蘭木村を出立。
栃尾へ向かったが道らしい道は無い。
炭焼きや樵が通うような険悪な山を歩いた。
霖雨がしきりに降り続き道は滑り転倒する者が続出。
灯りを点ずる事は禁じられ困難の中、行軍は続いた。
同村の庄屋に朝飯の支度を命じたところ、官軍の厳達で「会津方のご依頼には応じ難し」と拒絶された。
隊員が「失礼の申し分なり」と抜刀した為、庄屋は逃げ失せた。
仕方なく近所から人を借り集め朝飯の用意を命じた。
平太らが目指した八十里峠は現在の南蒲原郡下田村吉ヶ平から北魚沼郡入広瀬村田代平を経て福島県南会津郡只見村に抜ける峠道である。
一里を十里にたとえ八十里越えと言う程の険難な峠だが牛馬が通るように開削され、会津と越後を結ぶ生活道になっていた。
越後からは塩、会津からは蠟、漆、熊皮、紙が運ばれた。
〈凛々しい妻女たち〉
空腹で苛つく平太達の前に突然、庄屋の奥座敷から幼児を連れ長刀を手にした婦人が現れ隊長の萱野右兵衛に面会を申し入れた。
この婦人は近国に雄名を轟かしたる長岡藩士の河井継之助の姉に、妻女、もう一人召使の趣、この者一人幼児を背負いたり。
諸氏には今回の敗戦の遺憾などを物語り、しかし、この辺りは長岡藩の領地にして当庄屋、殊に親しく河井家に出入りなしおりたるゆえ、今回の危機をこの家に避けおりたるところ、夜中、大勢兵士襲い来しゆえ、もしや敵軍にあらずやと、その真偽を試すため、わざわざ庄屋に虚言を命じたりと。
もし敵軍ならば名乗り出で、切死にするの覚悟にてありしとて、三人鉢巻に襷を操取り、いずれも帯刀し、長刀を携え凛々しく見えたり。
これでぱっと笑いが広がり、平太らは朝飯にありついた。
朝飯を取るや休む間もなく栃尾の町を目指した。
平太は栃尾の町で長岡から避難してきた何千人という老弱男女に会い、その惨憺たる光景に胸を詰まらせた。
病人を背負い、幼児の手を引く妻女、荷物を背負い、その上に子供を乗せ老人の手を引く妻女、皆頭から泥土に塗れ、悄然と落ちてゆく姿は見るも哀れだった。
長岡の婦人達の健気さについては多くの資料に見られ武士の妻女の覚悟の程を知る事が出来る。
〈長岡兵の油断〉
長岡藩の総兵力は約千三百名。
河井はそれを三大隊、二十三小隊に編成。
ここに列藩同盟軍が加わり薩長軍に見劣りしない配備だが、初動の遅れで小千谷を奪われてしまったのが痛い。
加えて敵の渡河を許し榎峠や朝日山を占領され、この奪還に同盟軍の主力を投入せざるを得なくなり、長岡城の防衛が手薄に。
榎峠と朝日山を奪い時山直八を討ち取ったタイミングで小千谷に攻撃を仕掛け奪い返すべきだったが、河井が慎重策を取り小千谷攻撃を躊躇っているうちに敵に本丸に先制攻撃された。
長岡城は栖吉川と信濃川が取り囲み自然の外郭を形作り城の東の赤川から水を引いて幾重にも堀を巡らせていたが広壮な石垣があるわけではない。
元々戦争を想定して造った城ではない。
大砲で攻められればひとたまりも無かった。
城を守るには敵を渡河させてはならない。
長岡藩の勘定頭村松忠治右衛門が編纂した長岡藩の公式記録『長岡藩戦争之記』によると、
「その猛烈、前日に倍し弾丸雨下、我また憤発防守す。第六字(午前六時)官軍煙霧(まーた悪魔)に乗じ潜かに渡川し来たる。我が寺島・中島の兵、不意の侵撃にかかり隊伍散乱、退いて内川東堤に拠り必死防戦す。官軍勢破竹のごとく、我が兵、支えることあたわず敗走す」と記されている。
↑二本松城落城の時も会津若松城の時もそうだけど、薩長軍は略奪強姦が酷かった。
そんなもの、軍規で厳しく定め、破った者は死罪とすれば略奪強姦は起きなかっただろうに、略奪強姦が横行した。
16世紀の戦国時代ですら略奪強姦を゙厳しく戒めていた武将が多かったというに。
西軍による略奪強姦の横行は謎。
生き肝食べる行動も、尋常ではないと思う。
今日はここまで。
15時から夕食作り。

ペンネのボロネーゼ、焼きとうもろこし、マセドアンサラダ、チーズ竹輪。
16時過ぎに長男と孫たちが受け取りに来た。
上の孫は中身を見るや、食べたいから帰る!と急いで帰って行った。
老夫婦は19時頃に食べる。
それまで、最新情報を゙チェックし、読書と調べ物をする事に。
歩数計は8150。
充実した一日だった。